NATROMのブログ

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「ダーウィンよ さようなら」

自然科学が成功した理由の一つに、相互評価がある。新しい仮説を提唱したときには、手段・方法・対象を明確にして、第三者が検証できるようにしなければならない。また、その仮説がこれまでの知見に矛盾しないか、矛盾するならばどのようにその矛盾が説明されているのか、第三者によってチェックされなければならない。こうしたルールは最善のものではないかもしれないけれども、我々にこれ以上のことができるだろうか。たまに、こうした科学のルールに従わない人たちもいる。

というのも、最近機会あって、「ダーウィンよ さようなら」(牧野尚彦著 青土社)という本を読んでみたのだが、まあ酷いとしか言いようがない内容だった。ダーウィン進化論は間違っていて、その代わりに「生体高分子系には認識的に自己組織化する能力がある」という説を持ち出している。進化論と創造論から来られた方なら、「ああ、いつものやつね」という代物。しかし、進化生物学に素養のない人が読んだら、納得したり、一理はあると思ったりするかもしれない。そこで今回は、各論として「ダーウィンよ さようなら」の問題点のある箇所をいくつか(全部指摘していたら、元の本より長くなってしまう)指摘し、こうした疑似科学に騙されないための心得を総論として書く。

ある学説を否定するには、その学説に熟知しておく必要がある。ガリレオはコペルニクス以前の天文学をきちんと理解していたし、アインシュタインはニュートン力学を正しく理解していた。一方、「ダーウィンよ さようなら」の著者である牧野は、ダーウィン進化論を正しく理解していない。牧野の主張をわかりやすくたとえると、以下の通りである。「地球が丸いという説は間違っている。なぜなら、地球が丸いとするならば、地球の裏側にいる人は下に落っこちてしまうはずだからだ」。具体的に指摘していく。

変異のランダム性

遺伝的変異の起源について、牧野は「ランダム変異説」と「体系的変異説」を対比させる。


まず最初に、遺伝的な変異がランダムに起こるというのだったら、それらは、結果的にそれが有利になるケースばかりでなく、著しく不利になったり、あるいは無益だったりするケースにも、まったく平等に起こるはずではないか、という疑問に答えてもらおう。(P27)
生存に不利な突然変異は起こっているけど何か?現実に観察してみると、ダーウィン進化論が予想するように、ほとんどの突然変異は不利もしくは中立である。特に、大きな突然変異*1で生存に有利なものは皆無といってよい。

もしクジラのように、偶然の突然変異で陸棲四足獣の肢が鰭に変わり得るものならば、類似の変異は他のあらゆる哺乳類にも同様な確率で生じてもよいはずである。ウシだってネズミだってヒトだって例外ではない。ところが、そんな変異の実例が報告されたことがかつてあっただろうか。もちろん一回の突然変異で一足飛びに肢が鰭へと変わってしまうものでもないだろうから、初発段階はごく軽微な変化で、外見上見分けがつかないほどのものだといういいわけはできる。しかしいかに軽微な変化といてども、クジラの場合それは”より多くの子を残せる”ほど適応上有利だったがゆえに自然選択によって助長されたわけであるから、外見上まったく見分けがつかないなどということは考えられない。
肢の変異は観察できるけど何か?集団内に変異が見られる形質は珍しくない。ダーウィンからして、自説の根拠として、集団内に遺伝しうる変異が存在することをあげている。牧野の言うように、生物が”考えて”進化するのであれば、有害な突然変異や集団内の遺伝的変異はどのようにして説明されるのであろう?そもそも、牧野はダーウィン進化論でいう、「ランダムな」という意味を理解していない。突然変異には、発生学的・歴史的な拘束があり、その意味において「ランダム」ではない。そのことはあらゆるダーウィニストが認めている。ダーウィン進化論でいう突然変異のランダムさとは、要するにこういうことである。ドーキンス「ブラインド・ウォッチメイカー(下)*2」より。

ほんとうは多くの点で突然変異はランダムではない。要するに私が言いたいのは、これら多くのランダムでなく起こる突然変異においては、なにやら動物の生活を向上させると予測されるようなものは何も含まれていない、ということでしかない。(p215)
(中略)
もし「ランダムな突然変異」を、突然変異が外的な出来事に影響されてないという意味で理解しているなら、突然変異がランダムだという主張はX線によって反証されている。もし「ランダムな突然変異」を、どの遺伝子も突然変異を起こす率は等しいという意味だと考えるなら、ホットスポットが突然変異はランダムでないことを示している。もし「ランダムな突然変異」を、どの染色体の遺伝子座でも突然変異圧はゼロであるという意味で解釈しているなら、やはり突然変異はランダムではない。突然変異が真にランダムであるのは、「ランダム」という言葉を「体の改善に向かうような偏りは一般に存在しない」という意味において定義するときだけにかぎられている。(p216)
牧野のいう、「体系的変異説」に相当する、「体の改善に向かうような偏りをもたらす突然変異」で、一般的に十分に認められたものはない。実際に観察される突然変異のほとんどすべてが、ダーウィン的な意味で、ランダムなのだ。

*1:ダーウィン的な意味で「大きな」突然変異

*2:新装されて現在は上下巻まとめて「盲目の時計職人」となっている

分子進化の中立説

木村資生が提唱した分子進化の中立説は、広く認められて、進化生物学の重要な一分野を占めている。現在の進化生物学を批判するためには、当然のことながら、中立説の知識が不可欠であろう。牧野は中立説をどう記述しているだろうか。


結局のところ、中立説は自然選択説に対する修飾要素でしかあり得ない。しかしなお、はしなくも中立説に表れた現代進化思想の内実を、私はここで告発したい。
その一つは、進化ということばを、限りなく矮小化してしまった罪である。
そこでは何だろうと、遺伝子が変化しさえすれば進化であるかのように論じられているけれども、ときには表現形質にすら影響しないほどの偶発的変異が、大きな分類群を説明できるだろうか。中立説の論者は、中立的変異で原始哺乳類からクジラが生まれると本気で信じているのだろうか。彼らは枝葉末節ばかりを突つくことにより、進化の本題というべき大進化の原因の探求を遠く退けてしまったのである。
「中立説の論者は、中立的変異で原始哺乳類からクジラが生まれると本気で信じているのだろうか」って、信じているわけないだろ。要するに、牧野は「この店では、魚が売っていない。大根が魚と本気で信じているのか?」と八百屋を非難しているのである。中立説を正しく理解している人にとっては、定義上、適応的な進化は中立説では扱えないことが分かっている。参考図書を見る限り、中立説および集団遺伝学に関する本は、木村資生の「生物進化を考える」だけである。教科書すら読んでいない。牧野は、啓蒙書を一冊読んだだけで、ある偉大な学説を批判したのだ。牧野は、集団遺伝学の基本を理解していない。

近年ではタンパク質のアミノ酸配列やDNAの塩基配列がよく知られるようになった。相同的なタンパク質について、これを古生物学的に分岐年代の明らかな生物群の間で比較してみると、アミノ酸の時間的変異率はほぼ一定で、一アミノ酸座位について(タンパク種によって差があるが)、平均10億年に一回くらいであることがわかった。これがいわゆる"分子時計”の概念であり、異なる生物間でアミノ酸配列や塩基配列を比較してみると、その相違の程度によって分岐年代がわかり、系統関係が推定できるのである。(P37)
ここまではOK。問題はない。ところが、

しかし、たった一段階変異するのに10億年もかかるのでは、進化なんか起こりっこないように思える。
(中略)
ここで、遺伝子突然変異によって、あるタンパク質の特定のアミノ酸座位が、20種のアミノ酸のうちの特定の1〜2種に置換されたときのみ、目標とする”有利な”形質が得られるものとしよう。もちろんそれ以外の置換は、すべて無用な変異である。
ただし、この数字は、その座位がどのアミノ酸に変わったかまでは不問にしているので、すべての無用な変異を含んでいる。もしその座位が特定のアミノ酸に置換することを期待するには、変異率は100億年に一回の桁と見積もらなければなるまい。これは継代的に存続する一つの遺伝子に着目するならば、それが偶然に有利な変異に遭遇するためには、何と100億年を見込まなければならないということを意味する。
牧野は、系統におけるアミノ酸の置換速度と、個体における突然変異の発生率を混同している。この混同は致命的なもので、牧野が集団遺伝学についてまったくの無知であることを示している。前者が平均10億年に一回くらいとしても、個体における突然変異が同じくらいの頻度であるわけではない。分子時計に使われるタンパク質におけるアミノ酸の置換速度は、タンパク質の機能に左右される。重要な機能を持ったタンパク質ほど、アミノ酸置換速度は遅い。だからこそ、「タンパク種によって差がある」のだ。一方、ある個体に有利な突然変異が起こるかどうか、というのは別問題である。DNAの複製はきわめて正確であるが、それでもヒトぐらいのゲノムを持つ生物は、常に毎世代についていくつかの突然変異は起こっている(集団に固定するかどうかは別として)。10億年も待つ必要はない。

”複合形質”の問題

牧野は、個体数が十分であれば100億分の1の確率でも有利な突然変異は起こるのではないかという想定された反論に対して、こう答えている。


生命というのは複雑精緻なシステムであるから、そこで起こった単独変異は、ほとんどシステムの攪乱であり、故障でしかない。いくつもの変異が偶然にも合目的的に合体してはじめて、有利さを主張できるのである。たとえば、イルカが超音波発信機を突然変異によって獲得したとしても、エコーロケーションのための受信機や解析頭脳を同時に備えていなければ、それが何になるというのだ。あるいは、ミツバチが有名な収穫ダンスというステキなボディーランゲージを見につけたとしても、たまたまそれを解読してくれる仲間がいなければ何の意味もない。それでは最初の突然変異、すなわち、”移行への最初の小さな一歩”には何の適応的な価値もなく、100億匹の延べ個体数をすみやかに達成するなんてことはまずあり得ない。結局それらの変異が偶然の幸運で合体する確率は、100億分の1×100億分の1……という無限小に収束する算式をとるほかはないのである。(P40)
たとえば目のような複雑な器官がいったいどのようにしてできたのか、という「還元不可能な複雑性」に関する疑問は、ダーウィンの時代からあり、ダーウィン自身によって回答されている。「目を構成する要素がすべて同時に出現しないと機能しない」というよくあるダーウィン進化論に対する反論は、明らかに間違いである。ドーキンスが指摘したように、「眼がないよりは、水晶体のない眼を持つほうがましである」。複雑に見える生物の形質も、漸進的な段階によって説明可能である。眼の場合は幸いにも、さまざまな種が段階的な眼を持つことによって、進化の段階が推定できる。

牧野がやってみせたような計算は、むしろ、ダーウィン的な進化以外の方法では、初めから何らかの知性が関与したとでも仮定しない限り、複雑な形質が進化し得ないことを示している。「超音波発信機」と「受信機」と「解析頭脳」を同時に備えさせるほど、「自己組織化する能力を持つ生体高分子系」は賢いのだろうか?よしんば生体高分子系が十分に賢いと仮定して、そのような生体高分子系は非常に複雑なものであるに違いないが、いったいどのようにそうした複雑なものが生じたのであろう?牧野の主張する「自己組織化する能力を持つ生体高分子系」も、牧野自身が批判している「生命物質系が目的性を示すのは、”宇宙原理”だとか”生命要因”などといった、得体の知れない生気論的な神秘力によるのだという、非理迷妄な議論(P12)」と似たりよったりである。


このような、さまざまな単位形質が体系的に合体しなければ意味のない”複合形質”の進化の問題は、主流進化論の最大の難点であり、進化学者たちは故意にその問題を避けているようにみえる。(P42)
進化学者が問題を避けているのではなく、牧野が進化学者による議論を知らないだけ。ドーキンスによる「ブラインド・ウォッチメイカー」(原著1986年、和訳1993年)はこの問題によく答えているが、「ダーウィンよ さようなら」の参考図書には挙げられていない。木村資生の「生物進化を考える」は参考図書に入っているが、同書第5章「自然淘汰と適応の考え」において、ダーウィンが眼のような完成された器官が自然淘汰でできるのかどうかという問題を論じているところが紹介されている。そもそも、ダーウィンの「種の起源」が参考図書に挙げられていないのはどういうこと?

ちなみに、参考図書には、日本語の本のみで、原著論文は一つも挙げられていない。牧野は、「自己組織化」が自然淘汰の代わりに生物の複雑さを説明すると考えているようだが、参考図書にはカウフマンをはじめとした、自己組織化、カオスの縁、複雑系関係の本はない。カウフマンは、進化における自己組織化の果たす役割を重視しているが、ダーウィン的な進化を理解しているし、否定もしていない。今後、ダーウィン進化論を修正したり内包したりする新しい学説が登場するかもしれない。しかしそれは、ダーウィン進化論を理解している人によってのみ、なされるだろう。

トンデモに騙されないために

この調子で指摘していくと、いくら時間があっても足りない。牧野の議論は基本的には無知に基づいたもので、まともな考察に値しない。事実、進化生物学者で牧野を論じている人は、私の知る限りいない。不幸は、進化生物学について不案内であるがゆえに、牧野の主張になにがしかの意味があると誤解してしまう人たちがいることである。これは、相対性理論は間違っている系の主張、現代医学は間違っている系の主張にも通じるところがある。

たとえば、その辺のオヤジが、「俺はものすごいピッチャーで、イチローを三振にとることなど簡単にできる」と言ったとしよう。これを信じる人はいるだろうか?その辺のオヤジでなく、社会人野球リーグのメンバーだったらどうか。それでも、信用する人はいないと思われる。ところが、自然科学の世界になると、同様のことを信用してしまう人がいる。ダーウィン進化論や相対性理論といった確立された学説を根拠を持って否定し、代替説を提示することができれば、科学の世界のスーパースターになれる。しかし、一般書でダーウィン進化論や相対性理論を否定してみせた人は数いれど、科学界で評価されている人はいない。

冒頭で述べたように、科学の世界では新しい説は相互評価にさらされるというルールがある。科学雑誌に論文を載せるためには、通常、まず査読者から評価される。論理の誤りや飛躍、説明・データ不足があれば突っ込まれる。そうした突っ込みにきちんと答えられたものだけが論文として掲載される。それは相互評価の始まりに過ぎない。多くの研究者の目に留まり、追試され、議論され、修正され、次第に学説が受け入れられり棄てられたりする。こうしたシステムが確立して以来、ルールを逸脱した学説が最終的に評価を勝ち得たという例を私は知らない。

ひるがえって、たとえば牧野が提出するような「学説」はどうだろうか。第三者の評価を経たであろうか。牧野の「学説」を論文にして、進化生物学の学術誌に投稿するとどうなるか。査読者のチェックが入って掲載されないか、大幅な修正を要求されるだろう。内容がどうしようもなく間違っているからだ。しかし、一般書にして発表することはできる。進化生物学に詳しくもない編集者と読者が相手だ。内容の間違いは気づかれない。

ここから、いくつかの教訓が導かれる。まず、一般書の内容を鵜呑みにしないこと。あなたがもし、進化生物学に詳しくないとしたら、進化生物学について書かれたその本の内容の是非を正しく判断できるとは限らない。一般書の中には、専門家によって書かれた良書もある。あなたがもし、その分野について正しい知識が知りたいのであれば、まずは専門家からも評価されている本を、できれば複数読むべきである。センセーショナルな内容(たとえば「ダーウィン進化論は間違いである」「爪をもむだけで末期がんが治る」など)が書かれていた場合、「その内容が事実だとしたら、いったいなぜ他の専門家によって支持されていないのか?」と考えよう。陰謀論に陥らない限り、正しい判断ができるはずだ。