NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

「1回で複数のがんを早期発見できる検査によるがん検診」の大規模臨床試験の論文を読んでみた

一度に複数のがんを発見できる「夢の検査」

現在の日本で推奨されているがん検診は、胃がん、肺がん、大腸がん、子宮頸がん、乳がんの5種類だ。それぞれ、上部消化管内視鏡や胸部レントゲンなどの個別の検査を受ける必要がある。検査には時間や身体的な負担がかかるうえ、一つの検査で調べられる臓器も限られている。「一回の検査でいろいろながんが早期発見できればいいのに」と思うでしょ?実際、まだ研究段階ではあるものの、一度の検査で複数の臓器のがんを発見できる検査法が開発されている。こうした検査は「多がん種早期検出(MCED:Multi-Cancer Early Detection)」検査と呼ばれる。日本でも、『N-NOSE』(線虫がん検査)や『マイシグナル』といったMCED検査は数千円から数万円で利用可能だ。ただし、こうした検査によるがん検診が有用であるとは証明されていない。

がん検診として利用する以上、過剰診断や偽陽性といった害は避けられない。十分な検証が行われないまま、対価を取ってMCED検査を提供することには、倫理的な問題があると私は考える。いったんビジネスとして成立してしまうと、検査の有用性を厳密に検証する動機が弱まる。研究の結果、ヤブヘビで有用性が否定されれば、自らのビジネスに打撃を与えることになるからだ。そうなると、費用をかけて質の高い研究を行うよりも、自称医療ジャーナリストに提灯記事を書かせたり、有名人を広告塔に起用したりして、検査の宣伝に力を入れるほうが都合がよくなる。

さらに、こうした姿勢では国際的な競争力も失われてしまう。本当に有用な検査だと信じているなら、費用をかけて質の高い研究を行い、その有用性を証明すればよい。がん検診としての有用性が証明されれば、日本国内にとどまらず、世界中で使われるようになるだろう。実際、海外ではすでに大規模なランダム化比較試験が行われている。英国のNHS-Galleri試験では、血液中に存在する細胞遊離DNA(cfDNA)のメチル化パターンを解析し、がんに由来するシグナルの有無や、その発生臓器を推定する検査が検証された。参加者は14万人超。すげえ。その論文をご紹介しよう。


■Effect of Screening with Multicancer Early-Detection Test on Late-Stage Cancer Diagnosis

14万人超が参加した大規模臨床試験の結果は?

イギリス(イングランド)において、がんの診断を受けていない50~77歳の参加者から年に1回、最大で3回、採血を行った。1回目の採血後、介入群と対照群に1対1にランダム割り付けを行った。それぞれ対象は7万人超だった。介入群において、がんの疑いがあると判定されると、推定されたがんの発生部位に応じて精密検査への紹介が行われた。対照群では採血および検体の保存は行われたがMCED検査は行わなかった*1。主要評価項目は、事前に規定された12種類のがんにおけるステージ3または4のがんだった。両群の発生率は、3回の採血ラウンドが終了し、最後の参加者の3回目の来院から少なくとも12か月の追跡調査が行われた後に測定された。結果は、統計学的有意差なし。事前に規定された12種類のがんについて、ステージ3または4のがんの発生率は介入群で10万人年当たり300.5件、対照群で292.5件だった、発生率比は1.03、95%信頼区間0.92~1.14。

なかなか厳しい結果だ。今回の臨床試験では、がん検診におけるMCED検査の有用性は証明されなかった。進行がん(ステージ3~4)の発生率が本命の評価項目であったが、減らすどころか、傾向としてはちょっぴり増加している。

ただし、副次評価項目によっては期待できるものがある。たとえば、ステージ4の発生率比は0.86、95%信頼区間は0.74~1.00だった。多重検定によるタイプ1エラーを防ぐために有意差検定は行われていない。よしんば有意差があったとしても、多くの副次評価項目の一つであるので、有意差自体にはあまり意味がない。統計学的有意差を気にするよりも、期待できる臨床的意義を考察するほうが有意義であろう。ステージ3と4の合計を減らせなくても、ステージ4を減らせるのであれば、それは利益である。好意的に考えれば、介入群では早期発見・早期治療によってステージ4に進む前に治療できた一方、ステージ4に進む前の段階でステージ3として診断されたがんが増えたため、ステージ3と4の合計には差が出なかったという解釈も可能である。

がん検診の有効性は何をもって判断するのか

一般的には、がん検診を行うと、がんと診断される人の数は増える*2。実際、本試験でもステージ1と2のがんは対照群と比較して介入群で増えている(発生率比1.16、95%信頼区間1.03~1.30)。もちろん、検査によってがんが発生したわけではない。診断数が増えたのは、対照群でもいずれは診断されるはずのがんを早期に発見した「前倒し診断」や、生涯にわたって診断されることのなかったがんまで発見してしまう「過剰診断」によるものである*3。早期がんの診断が増えたのは想定内。

一方で、計画段階では、ステージ1~2で早期発見・早期治療することで、ステージ3~4のがんを減らせると期待された。進行がんの発生率を評価項目とすると、対照群において本当はどれぐらい未診断のがんがあるのかわからないという問題が生じてしまう。仮に対照群に未診断の進行がんが多ければ、両群の差が実際よりも小さく見えてしまう可能性がある。これは、検診の有効性を証明しようとする側にとって、やや不利に働く。しかし、研究者たちはこうした限界を承知したうえで、必要なサンプルサイズや統計学的検出力を検討し、評価項目を事前に定めているので、試験の結果が覆るわけではない。

一般的には、がん検診の有効性の評価項目は、がん死亡率だ。対照群でもがんで死亡するとほとんどが正確に数えられる。本試験でがん死亡率を主要評価項目としなかったのは、がん治療が進歩した現在はなかなかがんで死なないため、結果が出るまでに時間がかかるからであろう。本試験でもランダム化から5年後および8年後におけるがん特異的死亡率が副次評価項目にある。今後報告されるであろう。仮に将来、介入群でがん死亡率が有意に低いという結果が得られたとしても、検査の有効性を示唆する重要な知見にはなるが、今回の主要評価項目の結果が覆るわけではない。確証を得るには、原則として、がん死亡率を主要評価項目とした新たなランダム化比較試験が必要になる。

「臨床試験をしたら会社が潰れる」は言い訳にならない

質の高い臨床試験には、膨大な時間と費用がかかる。しかし、人々の健康や命に関わる以上、それは必要な時間であり、必要な費用である。一見、遠回りに思えるかもしれないが、有用性が不明な検査を十分な検証なしに広く普及させるよりも、科学的に有効性を確かめてから導入するほうが、結果としてより多くの人の命を救うことにつながる。

線虫検査を擁護する人の中には「中小ベンチャー企業がサービス開始前に大規模な臨床試験を実施していたら、結果が出るまでに会社が潰れてしまう」と主張する人もいる。しかし、企業の資金力や経営上の事情は、科学的な検証を省略してよい理由にはならない。この主張は、突き詰めれば「企業が存続するためなら、有効性が証明されておらず、利用者に害を及ぼす可能性のある医療サービスを提供してもやむを得ない」と言っているようなものだ。何も最初から大規模臨床試験を行わなくてもよい。無症状の人に対する検査として広く提供する前に、再発モニタリングや、がんの疑いのある患者に対する診断補助などで実績を積むといった方法もあるのに、それをしないのは、金儲けが主目的だとみなさざるを得ない。


*1:通常のがん検診は普通に受けることができる。というか、二重盲検なので、精密検査への紹介が来るまでは、参加者は自分が介入群なのか対照群なのかわからない

*2:子宮頸がん検診のように前がん病変を発見・治療する検診だと浸潤子宮頸がんは減る

*3:本試験では観察期間が短いので過剰診断の割合はわからない。検査の特性から過剰診断は少ないという予想もある。

エホバの証人が事実上の輸血解禁

先月、■エホバの証人の「輸血拒否」に、医療機関はどこまで応じるべきかで、輸血拒否をめぐりエホバの証人が医療機関を訴えた事例について論じました。輸血が必要になる可能性がきわめて低い治療であっても、万一に備えて患者の受け入れを制限せざるを得ない医療機関と、その結果、輸血とは直接関係のない医療まで受けにくくなるエホバの証人の信者の間の難しい問題について、私は「解決する手段は思いつきません」と結論しました。ところが、それから一か月もしないうちに、この問題はほぼ解決しました。エホバの証人が赤血球、血漿、血小板といった成分輸血を容認したのです。



■「エホバの証人」が成分輸血を事実上容認、信者が「自らの良心に基づいて」…「方針変更ではなく調整」 : 読売新聞
■【独自】エホバの証人、「他人の血」輸血を一部容認へ 内部文書入手 全血は禁止維持|FNNプライムオンライン



全血輸血は引き続き禁じられていますが、少なくとも日本ではそもそも全血輸血はほとんど行われておらず、たとえば貧血なら赤血球、凝固因子が不足しているなら血漿、血小板が不足しているなら血小板を輸血するといった成分輸血が基本です。事実上、輸血は解禁されたとみなしてよいです。もちろん、今後も個々の信者が輸血を拒否することはあるかもしれません。しかし、宗教上の理由に限らず、患者が特定の医療行為を拒否することはあり得ます。少なくとも、エホバの証人の教義に基づく輸血拒否をめぐって、医療機関と患者の双方が抱えていた難しい問題は、今回の「調整」によって大きく改善されたといえます。

今回の「調整」自体は歓迎するとして、じゃあ、これまでの方針は何だったんだという気持ちは隠せません。エホバの証人のサイトに、今回の「調整」についての記述があります。



■How Do Jehovah’s Witnesses Show Respect for Life?



エホバの証人のサイトには「聖書は医療や外科的治療において、人自身の血を使用することについて何も述べていません。したがって、他の医療に関する選択と同様に、クリスチャンは皆、医療や外科的治療において自分の血を使用することについて、各自で決定しなければなりません」とあります*1。聖書には「血を避ける」よう求める記述はあるものの、医療として行われる成分輸血について具体的に述べた箇所はない、という理屈です。それはその通りでしょう。ただ、それを言うなら、全血輸血を禁じる記述も聖書にはありません。聖書で問題とされているのは、動物を食べる際の血抜きや、血そのものを口にすることなどであって、そもそも輸血について述べているわけではないからです。

これまでの輸血をめぐるエホバの証人の方針も、合理性に欠くものでした。何がOKで何がNGなのか、外部からは見当がつきません。赤血球輸血が禁止されていたのはまだわかります。しかし、新鮮凍結血漿は認められない一方で、血漿から作られるアルブミンや凝固因子などの血液製剤は受け入れることができました。かといって、単純に「量が少なければよい」という基準でもありません。全血に占める割合が1%にも満たない血小板も、輸血は認められていなかったからです。

HIVなどの輸血を介する感染症のリスクを理由に、エホバの証人の輸血禁止には理にかなっているというようなことを主張する人もいますが、そうした人は感染症リスクの問題がほとんどない貯血式自己血輸血が長らく禁止されていたことを無視しています。貯血式自己血輸血は、あらかじめ採取して保存しておいた自分の血液を体内に戻すため、「血を避けよ」という聖書の教えに反すると解釈されたのだ、と説明することはできるかもしれません。しかし、それなら手術中に失われた自分の血液を回収し、処理して体内に戻す回収式自己血輸血(セルセーバー)が認められてきたこととの違いを、どう説明するのでしょうか。

貯血式自己血輸血は2026年3月に認められ、今回はさらに成分輸血も認められました。ここで重要なのは、聖書の記述そのものが変わったわけではないということです。変わったのは、エホバの証人の教義や活動方針を決める統治体による聖書の解釈です。つまり、輸血を禁じるのかを決めてきたのは、聖書そのものではなく、聖書をどう解釈するかという人間の側の判断だったのです。

これまで各地で起こされてきた訴訟は、今後どうなるのでしょうか。そのまま続けるのか、それとも取り下げるのか。いずれにせよ、今回の「調整」を機に、輸血という命にかかわる重大な医療行為を禁じたり、認めたりしてきたのは、聖書の記述そのものではなく、それを解釈する人間の判断だったということに、多くの信者が気づいてほしいと思います。


*1:原文は"…the Bible does not comment on the use of a person’s own blood in medical and surgical care. Therefore, like other choices about health care, each Christian must make his own decision about the use of his own blood in all medical and surgical care."

エホバの証人の「輸血拒否」に、医療機関はどこまで応じるべきか

宗教上の理由から輸血を拒否する「エホバの証人」の信者と、医療機関との間で訴訟が起きています。


■「診療拒否は違憲」 エホバの証人信者5人が沖縄県を提訴


報道によると、エホバの証人の信者5人が、輸血を受け入れないことを理由に県立病院で診療を断られたとして、沖縄県を相手取り損害賠償などを求めて提訴しました。同様の訴訟は、名古屋市立大や滋賀医科大、熊本大に対しても起こされています。

個人的には臨床医としてエホバの証人の患者さんを診療した経験はありますが、内科ということもあって輸血するかどうかシビアな決断をしたことはありません。とはいえ、病態が違えば、そうした判断を迫られていた可能性は十分にあります。決して他人ごとではない問題です。エホバの証人の輸血拒否に関係する論点は多岐にわたりますが、今回の事例は未成年ではなく成人、また緊急時ではなく時間的な余裕のある状況での話です。そこで、ここでは成人の待機手術に話を限ります。それでも、存外、複雑な問題です。

まず、前提として、成人患者が輸血を受けるか受けないかの自己決定は「個人の権利」として尊重されるべきです。たとえ、輸血しなければ生命の危険がある場合であってもです。この点については広く認められています。輸血拒否の意思表示を明確に示した患者に対し、手術中に救命のため無断で輸血した事例は、医師側が敗訴したという判例があります*1。主な理由は説明義務違反です。ざっくばらんに言えば「万が一のときには輸血をするという方針を前もって説明しないのは、患者の『だったら手術をやめる』という自己決定権を侵害してるからダメだろ」ということです。

患者の自己決定権が尊重されることは当然として、医療機関側にもどんな場合も輸血をしないという条件(「絶対的無輸血」)で手術を引き受ける義務はありません。また、「できるだけ輸血をしないという方針でいくけど、万が一のときは救命のために輸血するよ(「相対的無輸血」)」と前もって説明していれば、説明義務違反にはなりません。説明を受けたうえで、その病院で手術を受けるか受けないかは、患者さんが決定すればいいという考え方です。今回、提訴された沖縄県の県立病院もそのような方針を取っています。こうした方針の医療機関は珍しくありません。

患者さんの命を預かる医療人として『いかなる場合でも輸血をしない』という制限のもとでは治療本来の「救命」が達せられません

こうした方針でおおむねトラブルはなかったのですが、最近になって訴訟が相次いでいます。エホバの証人側に何らかの方針変更があった可能性があります。個人的な推測ですが、相対的無輸血方針の医療機関が多くなった結果、エホバの証人の患者さんが受診できる病院がきわめて限られてきたためではないかと考えます。滋賀医科大学医学部附属病院が、エホバの証人の患者さんの白内障手術をめぐって提訴された事例もあります。白内障手術で輸血が必要になることは通常まずありません。それでも病院として相対的無輸血の方針を採っている以上、「できる限り輸血はしないが、生命を救うためにどうしても必要になれば輸血する」という方針をあらかじめ説明し、患者さんの意思を確認することになります。でないと、万が一のときに説明義務違反で負けます。

一方、患者側からすれば、輸血しないと死ぬかもしれないような手術だけでなく、白内障手術のように通常は輸血を必要としない治療であっても、万一の場合の輸血に同意しなければ治療を受けられないことになります。近くに絶対的無輸血方針の医療機関があればよいのですが、必ずしもあるとは限りません。遠方の医療機関まで出向かなければならなかったり、場合によっては治療を受けられる医療機関そのものを見つけるのが難しかったりするでしょう。そうなると、単なる「不便」の問題ではなく、医療へのアクセスが実質的に制限されていることになります。こうした状況をなんとかしたい、というのが今回相次いでいる提訴の背景にあるのでしょう。

輸血を受けるかどうかを自分で決めることも、必要な医療にアクセスできることも、患者にとって重要な権利です。受診できる医療機関が著しく限られているのであれば、それを問題として訴訟という形で問い直そうとするのも理解できます。一方で、だからといって個々の医療機関や医療者に、絶対的無輸血という条件で手術を引き受けるよう強制することは難しいです。輸血すれば救命できるのに、目の前で患者さんの状態が悪化し亡くなっていくという心理的負担は、医師としてけっこうキツイっすよ。地域医療を支えるために労働条件が少々悪くても公立病院で働こうという熱心で志の高い医師にとっては余計にそうでしょう。冒頭で「存外、複雑な問題」と述べたのはこのような理由からです。解決する手段は思いつきません。