2025年6月、子どもの甲状腺検査に関する要望書が福島県に提出されました。提出したのは、かつて福島県立医科大学で検査運営に携わった医師らが所属する専門家団体「若年型甲状腺癌研究会(JCJTC)」です。
■“過剰診断”が生じている…研究団体が「子どもの甲状腺検査」見直しを県に要望(2025年6月12日掲載)|中テレNEWS NNN
■JCJTCから福島県に対し、甲状腺検査に関する要望書を提出しました(第1報)|若年型甲状腺癌研究会
中テレNEWSの記事では過剰診断がクローズアップされていますが、要望書には過剰診断に加えて「数十年後に発症するがんの大幅な前倒し診断例」にも言及されています。放射線被ばくの影響があろうとなかろうと、過剰診断や大幅な前倒し診断は著しい不利益が生じます。一方で、甲状腺がん検診から得られる利益は不明確で、利益は存在しないか、存在したとしてもきわめて小さいと考えられます。しかしながら現状では、福島県の甲状腺検査の対象者には、根拠の乏しい「検査のメリット」が説明される一方で、「過剰診断」という用語を用いた説明がされていません。要望書では、学校の授業時間内の甲状腺検査の中止や「過剰診断」の意味を含めた正確な情報の提供を求めています。
こうした専門家の要望がメディアで広く報道されることはよいことだと考えます。私の観測範囲内ではおおむね好意的に受け止められていましたが、一部に、以下のような反応がありました。
普段は早期発見早期治療が大事と言われるのに福島の甲状腺がんだけ過剰診断だとされるのはおかしい。甲状腺がん検診だけ中止せよというのはダブルスタンダードだ。
こうして疑問を発信していただけるのはありがたいことです。がん検診に関する誤解は、医療従事者も含め、広く行きわたっていますので、こうした疑問が生じるのは仕方ありません。がん検診についての理解が深まるきっかけとして、このブログがお役に立てば幸いです。
「甲状腺がんだけ検診するなと言われている」は事実誤認
そもそもの話ですが、「福島の甲状腺がん検診だけが特別に過剰診断だ、中止すべきだと言われている」というのは事実誤認です。甲状腺がんに限らず、がん検診を行えば一定の割合で過剰診断が生じることは、少なくとも1980年代には知られていました。たとえば、乳がん検診は15~30%程度の過剰診断が生じます。過剰診断が生じるのに乳がん検診が推奨されているのは、乳がん死亡率の減少という利益が、過剰診断を含めた害を上回っていると考えられているからです。医療介入は常に、利益と害のバランスを考えなければなりません。そして、甲状腺がん検診については利益が害を上回っているとは考えられません。
甲状腺がん検診に限らず、中止が提言されたがん検診は他にもあります。乳がん検診が推奨される対象者は、国よっても異なりますが、現在の日本では40歳以上の女性です。濃厚な家族歴があるなどの例外を除いた平均的リスクの40歳未満の女性に対する乳がん検診は利益よりも害が大きいと考えられています。しかし、『余命1ヶ月の花嫁』という書籍のテレビ化・映画化にともない、テレビ局が「乳がん検診キャラバン」として20歳台・30歳台の女性に乳がん検診の受診を呼びかけたことがありました。こうしたキャンペーンに対し、がん情報の提供や啓発活動を行うNPOから、2010年、20歳台・30歳台の乳がん検診には有効性を示す科学的根拠がないとして、検診キャラバンの中止を含む見直しを求める要望書が、提出されました。他にも、2003年には、小児がんの一種である小児神経芽腫(神経芽細胞腫)のマススクリーニング検査が休止されました。海外の事例まで含めると、根拠に乏しい検診や検査の中止が提言されている事例は数多くあります。
現在の日本で検診が公的に推奨されているのは、大腸がん、乳がん、子宮頸がん、胃がん、肺がんの5つのがんで、その他のがんについては推奨されていません。20歳台・30歳台の女性に乳がん検診が推奨されていないように、推奨されているがん検診にも、それぞれ対象年齢や検査間隔が定められています。正直なところ、この記事のタイトル「なぜ甲状腺がんだけ検診するなと言われるのか」は、厳密には不正確でした。正しくは、『なぜ甲状腺がんだけ「なぜ甲状腺がんだけ検診するなと言われるのか」と言われるのか』とすべきでした。
甲状腺がん検診の害の情報が十分に知らされていないのは患者の権利を侵害している
甲状腺がん検診だけ特別扱いされているという誤解が生じる理由は、想像はつきます。がん検診を受けましょうという情報が広く発信されているのに対し、がん検診には害もある、受けないほうがいいがん検診もあるという情報は、一般には届きにくいのです。「乳がん検診キャラバン」そのものの宣伝と比べて、中止を求める要望書についての報道はあまりにも少なかったと記憶しています。神経芽細胞腫マススクリーニング検査を速やかに休止できたことは、海外の検診の教科書*1で「(日本の厚生労働省は)模範的な行動を取ることができた」と高く評価されていますが、一般向けにはあまり知られていないようです。
加えて、がん検診の利益や害は直感的にわかりにくことも理由の一つでしょう。とくに過剰診断は、実際には害しかもたらさないのに、検診を受けたおかげで命が助かったという誤解が生じます。過剰診断が多ければ多いほど検診に人気が出る現象に、「ポピュラリティパラドクス」 という名前がついているぐらいです。こうした構造的な誤解が背景にあるからこそ、福島県の甲状腺がん検診に限らず、一部の自治体で行われている推奨外のがん検診や線虫がん検査をはじめとした自費診療のがん検査といったエビデンスに乏しいがん検査が横行しているのでしょう。
利益より害が大きい検査であっても、十分に情報を提供され、理解・納得した上で受けるのであれば、その選択は尊重されるべきという考え方もあります。福島県においては放射線被ばくの不安から検査を受けたいという人もいるでしょうから、検査を受ける権利を保障するのは大事かもしれません。要望書でも、単に検査を中止せよというだけではなく、学校外あるいは授業時間外で自主的希望に基づく検査の実施への変更が提言されています。
「なぜ甲状腺がんだけ検診するなと言われるのか」という声が上がること自体が、今回の要望書の「学校内での検査は中止して、正確な情報を住民に伝えよう」という提言の重要性と妥当性を裏付けています。過剰診断をはじめとしてがん検診の害について多くの人たちが十分に理解しているのであればこうした提言に必要性は小さいでしょう。しかし、福島県の子どもたちやその保護者の中にも「早期発見早期治療は常によいことだ」という誤解をしている人たちが少なからずいらっしゃるのが現状です。福島県において、甲状腺がん検診の害を認識していたのは16.5%に過ぎないという報告もあります*2。誤解に基づいて不利益の大きい検査を受けるようなことがあってはなりません。これは、自己決定を行うにあたって必要な情報を得る患者の権利の問題なのです。
参考文献:
■Overdiagnosis in cancer 2010年、WelchおよびBlack著。がんの過剰診断を論じるときに、ほぼ間違いなく引用されている。英語論文を読むならまずこれから。
■過剰診断: 健康診断があなたを病気にする WelchおよびBlackによる書籍。日本語の本ならこの本から。
追記(2025年6月27日):検診の害とは具体的に何か、わかりにくいというご指摘をいただいています。検診の害は、過剰診断以外にも偽陽性や検査そのものに伴う害(苦痛や合併症や放射線被ばく)など広範囲にわたりますが、わかりやすさを優先し、ここでは過剰診断の害についての説明の図を、■甲状腺癌の過剰診断の理解促進を(緑川早苗、公益財団法人山口内分泌疾患研究振興財団 内分泌に関する最新情報 2021年9月)より引用します。

過剰診断を含めた検診の害についての過去の記事については、たとえば以下が参考になるでしょう。
- ■「過剰診断」とは何か 過剰診断の定義、偽陽性や誤診や「がんもどき理論」との違い
- ■乳がん検診と子宮頸がん検診が毎年ではなく2年に1回なのはなぜか? 毎年の検診は隔年の検診と比べて害が大きくなるわりには得られる利益が小さいから
- ■福島県の甲状腺検査のメリットは明確ではない 極端に早期の診断の害についても言及
- ■検診で乳がんが発見された人が100人いたとして 乳がん検診で利益を得られるのは検診で乳がんが発見された100人中3人
- ■検診で発見されたがんの予後が良くても、がん検診が有効だとは言えないのはなぜか? さまざまなバイアスがあり、検診で発見されたがんの予後が良くても、がん検診が有効だとは言えない
*1:『スクリーニング―健診、その発端から展望まで』、ラッフル著、ミュラー著、同人社、P196