NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

喫煙者の壁

医局に置いてあった文藝春秋をふと読んでみると、「変な国・日本の禁煙原理主義」という記事があった。「官が押しつける健康増進。この国はおかしくなっている」という副題がついている。養老孟司と、山崎正和という劇作家の対談形式。確かに、最近の禁煙運動にはやりすぎのところもあると、煙草を吸わない私でも思うくらいだ。たとえば、喫煙所を廃止して施設内全面禁煙にするものだから、裏口が事実上喫煙所になっており、そばを通ると臭いし吸殻も汚い。明確に分煙するほうが、お互いにハッピーであろうに。

というわけで、読む前は、この文藝春秋の記事は行き過ぎた禁煙運動に対する警鐘であるかと思った。劇作家のほうは知らないが、養老は、東大医学部を出て、基礎系とは言え教授まで勤めた人である。世間一般で思われているほどではないにせよ、それなりの医学知識は持っているであろうと私は考えていた。ところが読んでみてびっくり。養老は、基本的な疫学すら理解していないように見えた。疫学を理解していないとはすなわち、医学を理解していないに等しい。


■文藝春秋 2007年 10月号 P316 「変な国・日本の禁煙原理主義」


養老:愛煙家なのは確かですが、医学者とはいっても解剖学ですから、医学界では最も役に立たないと言われていますけど(笑)。しかしね、私は現代医学ってそれほど役に立つのか、と逆に問いたい。たとえば、「たばこの害は医学的に証明された」と言いますね。この「医学的に証明された」がクセモノで、実際のところ、証明なんて言うのもおこがましい状態なんです。
そもそも私はいつも言うんですが、「肺がんの原因がたばこである」と医学的に証明できたらノーベル賞ものですよ。がんというのは細胞が突然変異を起こし、増殖が止まらなくなる病気でしょう。その暴走が起きるか起きないかは遺伝子が関わっている。つまり、根本的には遺伝的な病気なのです。トランプのストレートフラッシュのように、五枚の手札が揃ったら、がんになるとしましょう。遺伝的に四枚揃って生まれてくる人もいれば、一組もカードが揃わず生まれてくる人もいるわけです。つまり、カードが揃っていない人は、たばこを吸っても肺がんにはならない。逆にカードが揃っている人は、禁煙していてもがんになってしまう。


養老は、トランプのたとえが反論になっていると思っているらしい。確かに、肺癌には複数の要因がある。そのうちの一つが喫煙である、トランプのたとえで言えばストレートフラッシュの手札の一つ(それもかなり重要な手札)であると、医学的に証明されている。肺癌には他にも要因があり、喫煙なしでも肺癌になりうるゆえに「たばこの害が医学的に証明された」ものではないと言うのであれば、現代医学の主張の大部分は証明されていないことになる。心筋梗塞は、肺癌と同じく、複数の要因によって発症する病気であり、糖尿病がなくても心筋梗塞になる人もいる。糖尿病や高血圧が心筋梗塞のリスクであることは、煙草の害と同じくらい証明された医学的事実であると私は思うのだが、養老に言わせれば、「糖尿病の害は医学的に証明されていない」わけである。

原因と結果が1対1対応している疾患は、きわめて限られている。大部分の疾患は、複数の原因があるのが普通だ。複数の原因の中でも影響力に差があるが、統計学的な手法で影響力の大小を評価することができる。影響力の大きなリスク要因のうち、コントロール可能なものを対象にして医師は予防的な介入を行なう。臨床医であれば誰しもリスクを量的に評価している。リスクの大きさについての異論、たとえば、受動喫煙の害はそれほど大きくはないと言った主張であれば、分からないでもない。しかし、養老のは0か1しかない1ビット思考である。

養老は統計学的手法を理解していないように見える。しかし、実は養老も心の奥底では分かっているのであろう。養老は現代医療に限界があることを示そうとして、水道水の普及が衛生状態を改善したことをあげた。



養老:やはり「大気、安静、栄養」がいちばん大事なのです。こんな話もあります。日本女性の寿命は大正九年を境に伸び始めているのですが、長い間その理由は判っていませんでした。それが数年前、建設省元河川局長の竹村公太郎氏が研究して、その時期に水道の塩素消毒が始まっていることを突き止めた。水が清潔になって、乳幼児の死亡率がぐっと下がり、女性の健康に好影響を与えていたのです。


「肺癌の原因が煙草であるとは証明されていない」と主張するのであれば、同時に、「水道の塩素消毒が乳幼児の死亡率や女性の健康を改善したとは証明されていない」と主張するべきである。清潔な水が寿命を延ばしたとしても、複数ある要因の一つ(トランプのたとえで言えば手札の一枚)にすぎないからだ。竹村公太郎氏による日本女性の寿命と水道水の研究はまさしく疫学的な手法に則っている。喫煙と肺癌の関係も同様の手法で、さらに言えば複数の集団においてさまざまな交絡因子を排除した研究で繰り返し証明されている。喫煙と肺癌との関係を否定しておきながら、清潔な水道水と寿命の延長の研究を肯定的に言うのはダブルスタンダードである。

養老は、統計学的手法を理解していないのではなく、喫煙の害を認めたくないだけなのだ。養老自身が喫煙者であるのと無関係ではないだろう。まるで、情報を遮断し、理解を妨げる壁があるかのようだ。喫煙の害を認めた上で合理的な妥協点を探るという道もあるだろうに。