NATROMのブログ

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撤回された論文は根拠にならない

2023年8月からX(旧Twitter)にて、元杏林大学保健学部准教授の平岡厚さんと対話を続けています。HPVワクチンは安全で効果的というのが世界中の専門家のコンセンサスですが、平岡さんはHPVワクチンの深刻な副反応・薬害が相当規模で存在すると主張しています。


HPVワクチン接種の有無にかかわらず血液脳関門の異常で害が起きるのは当然

平岡さんが提示する仮説の一つは「日常的に抗体値を高くさせられている人は、血液脳関門に異常が生じた場合、通常なら中枢神経系に入らない物質が侵入して悪さをするのでは」というものです*1。しかし、私のみるところでは平岡仮説はとくに根拠がない思い付きに過ぎないように思われました。

「日常的に抗体値を高く」するのはHPVワクチンだけでなく、他のワクチンだって同じです。B型肝炎ワクチンはHBs抗体価を高くしますし、麻疹ワクチンは麻疹ウイルス抗体価を高くします。なんならワクチンを接種しなくても免疫系は常に外来抗原にさらされていますので、正常なBリンパ球は24時間365日、抗体を産生し続けています。とくにHPVワクチンが危険だと主張するためには別の根拠が必要です。

平岡仮説を支持する根拠の提示を求められて平岡さんが提示した論文がMatsunoらによる2022年の論文です*2



■Association between vascular endothelial growth factor-mediated blood-brain barrier dysfunction and stress-induced depression - PubMed



しかしながら、Matsuno論文はストレスによって誘発された血液脳関門の透過性の増加に関与する因子をうつ病モデル動物で検証した研究であり、HPVワクチンにはなんら言及はされていません。Matsuno論文からはHPVワクチンの危険性については何も言えません。血液から有害物質の侵入を防ぐバリアである血液脳関門に異常が起きるとさまざまな障害が起きることは既知の事実です。HPVワクチンを接種しようと接種しまいと、血液脳関門に異常が生じると、通常なら中枢神経系に入らない物質が侵入して悪さするのは当たり前です。


HPVワクチンに特異的に害がある根拠の提示を求められると平岡氏は撤回された論文を提示した

平岡仮説に必要なのは、他の抗体と比べてHPVワクチンに誘導された抗体に特異的に害があるという根拠を提示することでした*3。重ねて質問すると別の根拠を提示してくださいました。



ですが、科学的な議論において、撤回された論文は根拠として使えません。倫理的な問題や不正や重大な誤りがあるときに論文は撤回されます。平岡さんは、撤回されたことを知らずにうっかり撤回論文を提示したのではなく、撤回されたことを承知の上で提示しました。

HPVワクチンについてまったく言及されていないMatsuno論文以外には、平岡仮説を支持する証拠は撤回されたAratani論文ぐらいだと平岡さんもお認めになりました*4。つまり、血液脳関門に異常が生じることでHPVワクチンにより特異的に害が生じるという平岡仮説には科学的根拠はなかったのです。平岡さんが、誤りを認め、仮説を取り下げたのならよかったのですが、平岡さんは仮説を繰り返します*5。これでは論点が同じところをグルグル回って、建設的な議論になりません。

Aratani論文の撤回をめぐる問題点

科学的議論における基本的なルールについて、平岡さんと私との間で重大な認識の差異があることを示したところで今回の記事を終わらせてもいいのですが、撤回されたAratani(2016)の経緯についても興味深いのでご紹介します。

著者らはHPVワクチンに特有の副作用に対し「HANS(HPVワクチン関連神経免疫異常症候群)」という疾患概念を提唱し、そのメカニズム解明を目的に、モデルマウスに対しHPVワクチン(Gardasil)および百日咳毒素を同時に投与した群と対照群を比較しました*6。この論文はいったんはScientific Reports誌に掲載されたものの、1年半後に撤回されました*7。理由は投与されたHPVワクチンの濃度が高すぎることおよび百日咳毒素の同時投与が適切ではないと判断されたからです。不正や倫理的問題ではなく、方法論に重大な誤りがあったとみなされたのです。

撤回に著者らは同意していません。掲載誌の編集部と論文著者の意見の相違はたまにあることです。そういう場合、たいていは論文著者は医学雑誌を変えて論文を再投稿します。実際、論文著者の一人が「向こうに撤回の権利がある以上、抗議しても意味がないので別の論文誌に再投稿して日の目を見るようにしたい」と話したと報じられています*8

Aratani論文は撤回から5年経っても再掲載されていない

撤回された当時、HPVワクチン支持者から「Arataniらの実験方法は適正であり、論文撤回決定は間違い」という意見もありましたが、もしその意見が正しいのであれば医学雑誌を変えれば論文は掲載されるはずです。しかし、2024年1月の時点で、該当する論文はPubMedでは見つかりません。そのような論文があるなら、平岡さんはわざわざ撤回された論文ではなく、その論文を提示すればいいはずです。Aratani論文は再投稿されていないか、あるいは再投稿されても掲載されるだけの水準に達しておらずリジェクトされたかです。

医学論文誌は数多くあり、多少の欠陥がある論文でも掲載してもらえる、レベルがあまり高くない雑誌もあるので、掲載誌を選ばなければ論文にはなるはずです。あるいは指摘された方法論の欠陥を踏まえて実験をやり直して、あらためてレベルの高い雑誌に挑戦することもできます。平岡さんは「彼等が百日咳毒素を用いない別な系で再実験したらどうか」と言いました。「百日咳毒素を用いない別な系」とは限りませんが、少しでもよい雑誌を狙って条件を変えた再実験が行われても不思議はありません。再実験でHPVワクチンの危険性を示す結果が出たならば、論文にしているはずです。

あるいは実験をやり直したところ当初の仮説に否定的な結果が出たとしても、それを公表することには意味があります。科学的議論よりも面子を保ったり裁判に勝ったりすることを優先し、患者さん・ワクチン接種者の命や健康はどうでもよいと考える研究者であれば自分の不利になる情報をお蔵入りさせて知らんぷりするかもしれませんが、真摯にHPVワクチンの副作用の問題を解明したいと願う研究者であれば、実験の結果をいずれは発表することでしょう。


そもそも動物実験のエビデンスレベルは低い

そもそもの話をしますと、Matsuno論文もAratani論文も動物実験レベルの話です。エビデンスレベルや健康情報の信頼性を評価するためのフローチャートについて知っていれば、たとえAratani論文が撤回されていないとしても、HPVワクチンの危険性を示す根拠としては心もとないことがわかるでしょう。HPVワクチンの安全性を示すランダム化比較試験のメタ解析や複数の大規模な観察研究による結論は、一つや二つの動物実験で覆すことはできません。

「日常的に抗体値を高くさせられている人は、血液脳関門に異常が生じた場合、通常なら中枢神経系に入らない物質が侵入して悪さをするのでは」という平岡仮説を支持する根拠は、動物実験レベルですら、現在のところありません。科学的議論では、新たな証拠が出てくるまでそのような仮説を引っ込めます。反論がなかったかのように仮説を主張し続けるのは科学的とは言えません。以上のような指摘を踏まえて今後は平岡さんと科学的議論ができることを望みます。