NATROMのブログ

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ドーキンスはマチガッテイル系

トンデモさんがターゲットにするのは確立された学説である。多くの科学者が信じている学説を否定することが、トンデモさんのアイデンティティだからだ。有名どころでは、アインシュタインによる相対性理論。「相対性理論は間違っていた!」と主張する人は山のようにおり、「相ま系(対性理論はちがっている)」という言葉があるくらいだ。相ま系の人たちは相対性理論を理解していないが、その権威ゆえに相対性理論を攻撃する。そうやって、「アインシュタインを含めた世の物理学者よりも真実に近いところにいる自分」という幻想を得るのだ。彼らは論文を書いたりはしない。「既存の学会を全否定する論文は没になる」などと言い訳しつつ逃げる。

進化論批判の多くの場合は宗教の影響のためなのだが、割合としては少ないものの「権威攻撃タイプ」の進化論批判もある。なかにはドーキンスを狙い撃ちしたものもあって、トンデモさんのターゲットとなるほどに世に受け入れられてきたのであるなあと感慨深い。まあ、竹内久美子をはじめとした質の悪い似非ドーキンス流学説が多いことも理由の一つなのだろうが。さて、掲示板で紹介されたのであるが、クラス進化論というユニークな進化理論を提唱しておられる南堂久史氏が、ブログでドーキンス説はトンデモ説であると主張しているそうなので、さっそく見に行ってみた。ちなみに南堂氏は、文字コード現代数学量子力学にも造詣が深く、まさに平成の万能大学者 と言えよう。


■代理出産と遺伝子(Open ブログ)


 近ごろはドーキンス説(というトンデモ説)に、世間の一般が妙に染まってしまっている。そのせいで、「親が子を生むのは、親が遺伝子を残したいからだ」と主張する。
 しかしながら、この説は、どう考えても現実に合致しない。たいていの男は、妻以外の女が妊娠すると、青ざめて、「中絶してくれ」と頼む。「遺伝子を残せてよかった」と思う男は少ない。また、結婚している夫婦だって、「遺伝子を残したいから、子をたくさん産もう」と思う夫婦は、非常に非常に少ない。たいていの夫婦は、二人を望むし、せいぜい三人を望むぐらいだ。「一人で十分」とか「収入の制限で一人またはゼロ人」と思う夫婦も多い。
 要するに、「遺伝子をたくさん残したい」なんていう要求は、ほとんどない。では、何があるか? 
 それは、(遺伝子でなく)「自分の子を残したい」という要求だ。
 (なお、もう一つは、「エッチをしたい」という性的な要求だ。これは当り前。)


不倫相手に中絶を頼む浮気男や産児数調節する夫婦の存在から、ドーキンスの理論は誤りとする主張は比較的よく見られる。そのような主張をする人は、竹内久美子は読んだのであろうが、ドーキンス自身による「利己的な遺伝子」は読んでいないのだろう。なぜなら、人間の行動は利己的遺伝子による説明の範囲外であるとドーキンスは明確に述べているからだ。以下「利己的な遺伝子」5ページからの引用。



ここで私は、この本が何々でないという第二の事項を述べねばならない。すなわち、この本は「氏か育ちか」論争におけるなんらかの立場を主張するものではない。もちろん、私はこれについてある意見をもっているが、それを表明しようとは思わない。ただし、文化について最終章[改訂版では11章]で述べる見解に含まれるものは、この限りではない。たとえ遺伝子が現代人の行動の決定にはまったく無関係であることがわかったとしても、すなわち、われわれが実際にこの点で動物界でユニークな存在であることがわかったとしても、ごく最近人間が例外となったその規則について知ることは、少なくともまだ興味深いことである。


現代人の行動、たとえば浮気男が中絶を頼む、夫婦が子の数を調節する、代理出産で自分の遺伝子を残そうとする行動は、利己的遺伝子の文脈で説明できなくても、ドーキンス説がトンデモということにはならない*1。南堂氏がトンデモだと言っているのは、ドーキンス説ではなく何か別のものである。「南堂氏の脳内ドーキンス説だろ」と言いたいところではあるが、残念ながら南堂氏の脳内以外にもこうした似非ドーキンス説ははびこっている。ただ、新しい進化論を提唱しようかという人であれば、「利己的な遺伝子」を5ページ以上は読んでおいて欲しいものだ。また、ドーキンス説を遺伝子決定論とみなす誤りも南堂氏はキッチリ踏襲している。



 実を言うと、こういう学者の主張の前提には、次の発想がある。
 「親は、自分のエゴゆえに、自分の遺伝子を残そうとする」
 これはドーキンス説だ。そしてこれが学者たちの信じる誤解だ。

 実は、正しくは、こうだ。
 「親は、子への愛ゆえに、(個体としての)子を誕生させる」
 遺伝子よりも個体が大事なのだ。それが真実である(はずだ)。

 では、こういう発想は、現代の進化論から出てくるか? いや、出てこない。現代の進化論は、遺伝子至上主義の発想を取るので、「遺伝子がすべてを決定する」と考える。そのせいで、個体を見落とす。あげく、「遺伝子と個体が絡み合う」という事実を見失う。


南堂氏は自然主義の誤謬にも陥っているのだがそれは置いといて、注目すべきは、現代の進化論は、遺伝子至上主義の発想を取るので、「遺伝子がすべてを決定する」と考えるという部分である。南堂氏が現代の進化論を理解していないのは明らかである。少なくとも、ドーキンスが自説が遺伝子決定論であるかのように受け取られないよう、かなりの努力を行なっていることをご存じない。「延長された表現型」では第二章「遺伝的決定論と遺伝子淘汰論」をまるまるその問題にあてている。P37より引用*2



遺伝的分散が、ある個体群における多くの表現型分散の重要な原因であるのは間違いないが、その効果は他の原因によって無効にされたり変更されたり強められたり逆転されたりすることがある。遺伝子は他の遺伝子の効果を変更しうるし、環境の効果も変更しうる。環境における出来事は、内的であれ外的であれ、遺伝子の効果を変更しうるし、他の環境の出来事の効果も変更しうる。


ドーキンスは、現代生物学における常識的なことを述べただけである。さて、「遺伝子がすべてを決定する」と考える現代進化生物学者がいったいどこにいるというのだろう?「南堂氏の脳内にしかいない」と言いたいところであるが、南堂氏以外の科学的思考力に難のある人たちの脳内にもいる。要するに南堂氏は陥りやすい誤りに陥った上で、ドーキンス説を批判しているだけ。最後に、南堂氏に以下の言葉を送りたい。*3


他人を批判するなら、最低限の知識を仕入れておいてほしい。常識だろう。
南堂氏が「ドーキンス説はトンデモだ」と主張するとき、南堂氏はドーキンス説そのものを批判するかわりに、勝手に「ドーキンス説はこうだ」と思う虚像を批判しているだけだ。いわば蜃気楼を批判しているのである。これでは議論にならない。

「自説は完全ではない。どこかに穴があるのだ。その穴を指摘されているのだ」というふうに、態度を変える必要がありますネ。態度を変えないと、批判が耳に入りませんヨ。


*1:竹内久美子的になるのを恐れなければ、利己的遺伝子で説明しようと思えばできる。でも、特に代理出産などは、説明しにくいと思う。ヒトは代理出産なんてない環境で進化してきたんだぜ?ミームでのほうがまだ説明できると父さんは思うな

*2:『ドーキンス説では「それぞれの遺伝子は独立していて相互的な影響がない」と仮定している』という南堂氏の誤りの反証にもなる

*3:南堂氏自身の「誤読への注釈」URL:http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_81.htmを参考にした