「ミネラル豊富な自然塩なら体にいい」という主張がある。添加物が癌の原因になるとか、牛乳は体に悪いとか、元禄時代以前の日本の食事が理想的だとかいう、いわゆるマクロビオティック系の主張によく連鎖している。工業的に精製された塩は塩化ナトリウムという「化学物質」であり、精製塩の摂取がさまざまな病気の原因になるというのだ。「天然物なら安全、人工物は危険」というよくある誤謬の典型例であろう。■どうして日本は癌大国になってしまったのか?のコメント欄で「精製塩は高血圧にするが、ミネラル豊富な塩は血圧を下げるなどとも言われており、悪いのはむしろ現代の塩と言う事なのではないか?」という主張があったので、日本の塩業について調べてみたところ*1、
- 1961年、イオン交換膜と電気エネルギーを利用した日本独自の製塩法による製塩が成功した。
- 1970年度中に全国で生産された塩量に対してイオン交換膜法で生産された塩は全体の28%に達した。
- 1971年、全国の塩田はすべて廃止され、全面的にイオン交換式という化学工業的な製塩法に切り替えられた。
とのことだった。いわゆる精製塩が出回りはじめたのは少なくとも1961年以降であり、1970年ごろでその割合は3割程度で、1971年を境に切り替わったわけである。日本の心血管病の年齢調整死亡率の年次推移のグラフ*2に、イオン交換膜と電気エネルギーよる製塩が成功した1961年と、塩田が廃止され化学工業的な製塩法に切り替えられた1971年に印をつけてみた。特に、高血圧と関連が深い脳血管疾患の変化に注目。
日本の心血管病の年齢調整死亡率推移と製塩*3 |
精製塩が出回るようになって脳血管疾患による死亡が減ったように見える。もちろん、これで自然塩のほうが体に悪かったと結論するのは誤りである。しかし、少なくとも、精製塩によって脳梗塞や心筋梗塞が増えたとか、「悪いのはむしろ現代の塩」だとかいう主張に根拠がないことはわかる。天然塩を信仰する方々が、このグラフをどのように解釈するのか興味がある。おそらく、このグラフで信仰を棄却することはなく、「精製塩以外の要因で脳血管疾患による死亡が減った可能性があるため、自然塩が悪いとは言えない」という正しい結論にたどりつくのではないか。自然塩やそのほかの「伝統的な食事」が体に良いと信じた根拠、つまり「過去と比較して病気が増えたのは伝統的な食事を止めたからだ」という主張が間違っていることには気づかないであろうが。
脳血管障害による死亡が減った理由は、もちろん精製塩のためではなく、塩分過多をはじめとした日本の「伝統的な」食生活が改善されたことや、高血圧が管理されたことによるとされている。磯博康、疫学・病態・診断 脳卒中の危険因子と罹患・死亡の動向、医学のあゆみ 223巻5号 Page353-357(2007)より引用する。
日本人に脳卒中の多発をもたらした背景としてナトリウムの過剰摂取,カリウム,カルシウムの摂取不足,動物性食品の摂取不足を特徴とする食生活や過重な肉体労働といったわが国の在来型の生活環境があげられる.しかし,1970年代後半からの経済の高度成長期に伴い,食生活の改善,肉体労働の軽減が進み,健診による高血圧者の把握,降圧薬の改良・普及による高血圧管理の向上がみられ, これらが日本人の脳卒中, とくに脳出血の減少につながった。
とりわけ,脳卒中の最大の危険因子である最大血圧の高値に関しては,男女各年齢層とも1961年から2000年にかけて大きく低下している。2000年の70歳以上の値は男女とも1961年の50〜 59歳の値とほぼ等しい.また,特定集団において長期間継続的に実施されている疫学調査においても,最大血圧値の低下が共通して認められている。
私の知る限りにおいて、精製塩と自然塩のどちらかがどちらかより体にいいとか、悪いとかいう医学的な証拠はない。違いは微量のミネラル成分であり、他の食品から摂取できるのであれば、別に塩から摂取しようとしまいとあまり変わらないのであろう。味は異なるので、好みで自然塩を使うのは別に問題ない。しかし、自然塩でも過剰に摂取すれば有害であると考えられる。自然塩が健康に良いという主張には科学的根拠はない。