NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

アクセスフリーの弊害

地方の中核病院に勤務していたころのこと。その病院は基本的には外来は午前中のみで、午後は急患のみ受け付けるようになっていた。救急専門の医師なんていないので、午後の急患当番を曜日ごとに決めていた。医師は不足気味であったので、午前外来・午後急患当番なんて曜日もあり、大物が飛び込んでくると入院患者さんを診る暇もなかった。

とある午後、20歳男性の頭痛の患者さんが来たと外来から連絡があった。なんでも、当日の午前中に別の医院に受診して薬も処方されたが、検査希望とのこと。紹介状なし。これがたとえば心肺停止であったら、とにかく今やっている仕事は全部中断して駆けつけるのであるが、急患ではなさそう。受け付けた以上は診ないわけにもいかないし、とりあえず仕事が一段落するまで待ってもらえと伝えた。30〜40分ぐらいしたら今度は脳外科の先生から、「頭部CTを撮ったけれども異常なし。内科的疾患だと思う。よろしく」と連絡があった。どうやら、内科の医師である私がすぐに診れないため、外来の看護師が気をきかせてか、頭痛ということで脳外科を受診させたらしい。

純粋に医学的見地から言えば、頭痛だからといってCTを撮るのは阿呆のすることである。詳しく病歴を聞き、丁寧に身体所見をとり、なんらかの頭蓋内病変を疑ったときに頭部CTをオーダーするのが「正しい」。しかし一方で、現在の日本で検査を希望する頭痛の患者さんのCTを撮らないのは馬鹿のすることである。万が一にでも、後からクモ膜下出血でも起こした日には、もれなく訴訟。そうでなくても、CTを撮ることで、患者さんの満足度は上がり、医療機関も収入が増える。

実際に患者さんを診察してみると元気で、前医で処方された解熱鎮痛薬でずいぶんと頭痛は改善していた。意識清明、血圧正常、髄膜刺激症状なし、微熱と上気道炎症状を伴う。前医の診断は感冒に伴う頭痛であり、患者側からの希望がなければ、まず頭部CTなんて撮ろうとは思わない症例だった。患者の母親が心配し、「ちゃんとした大きな病院できちんと検査してもらわなくて大丈夫か」と来院したという経緯であった。「この程度で来るな」と注意しようかどうか迷ったが、理解してもらえれば良いもののトラブルにでもなったらややこしいので、「検査では異常はありませんでした。良かったですね」と笑顔で対応し、強くは言わなかった。ちなみに前医は大病院で内科部長を勤めたのちに開業した医師で、私よりもずっと経験豊富である。

「母親が心配するのは当然。素人なんだからしょうがない」と思われる方もいるだろう。「死に至る万一の可能性を考え事実確認するのは当たり前」という意見もあるかもしれない。気持ちはわかる。しかし、この症例のような受診行動はコストがかかる。紹介状なしの初診であるからいくぶんかは割り増しがあるが、診察やCTにかかった費用については3割のみが自己負担である。医学的には意味のない「安心」のため、医療費が無駄に使われている。この無駄を無くすには、何らかのアクセス制限―たとえば紹介状が無い急患は断っていいというルールなど―が必要である。私の知る限り、開業医に受診した当日に、心配だからといって別の医療機関でCTを撮れるような贅沢ができる国は日本の他にはない。

日本のようなアクセスフリーの医療制度下で、低コストで医療が行われてきたのは奇跡的なことだ。その要因として国民皆保険制度のほか、国民が医療機関の利用に抑制的だったことがあるだろう。医療崩壊の原因の一つに、受診行動の変化があると考える。かつて「夜分にすみません」であったのが今ではコンビニ受診、酷い場合には「空いていると思ってわざわざ夜中に来たのに、こんなに待たすとはけしからん」になった。救急車の出動件数が増加したのは、かつては救急車を呼ぶほどではなかった軽症者にも最近では出動しているからだろう。むろん、気軽に時間外外来・救急車を利用できるようになったために助かった命はある。時間外受診するべきか、救急車を呼ぶべきか、一晩様子をみるべきか、素人が正しく判断するのは困難である。気軽に救急車を呼ぶのを禁止すると、必ず少数の犠牲が生じる。だが、「気軽」「安心」にはコストがかかる。そろそろ、我々は選択しなければならない。コストを負担するか、アクセス制限か、医療の質をあきらめるか。医師同士で解決するべき問題ではない。勤務医が雇用者と交渉してどうにかなる問題ではない。我々の問題だ。