NATROMのブログ

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誰が「タバコと肺ガンは無関係だ」と言ったの?

タバコは肺ガンの発生率を高める ── 。今では当たり前のように流布している“既成事実”を、改めて考え直させられる実験データが先月に報告された」のだそうだ。事実なら超びっくり。インパクトとしては「水俣病の原因は実は有機水銀ではなかった」と同等か、それ以上である。それも、喫煙者の立場を貶めるべくネガティブキャンペーンを繰り広げている日本パイプクラブ連盟などではなく、脳科学者である池谷裕二氏がそう言っているのだ。まず、喫煙と肺癌には相関関係はあるが、必ずしも因果関係があるとは限らないことを池谷は述べる。その後、癌になりやすさが遺伝しうること、遺伝学的調査によってどの遺伝子が肺癌に寄与しているのか探し当てられるとする*1


【5】タバコは肺ガンの原因ではない?(日経ビジネスオンライン)


 まさにこの追跡を行って、実際に危険遺伝子の一つを発見したというのが、先の3つの研究グループからの発表である。驚くべきことに、3つのグループとも、第15染色体上の同じ遺伝子に行き着いた。肺ガンの14%はこの遺伝子で説明できるという。遺伝子名は「ニコチン受容体」である。
 この名前から容易に想像できるように、これはニコチンを感知するアンテナである。細胞の表面にあって、ニコチン刺激を細胞内部に伝える役割をしている。
 実験データによれば、この遺伝子が、人によって、わずかに違うというのだ。ちょうどABO血液型のように、どのタイプの遺伝子を持つかは、親から譲り受けることで決定される。たまたまある型のニコチン受容体を持った人は肺ガンになりやすいというわけだ。


ここまではそれほど不思議もない。肺癌に寄与する遺伝子はあるだろうし、複数のグループで結果が一致したのなら、その結果は信頼できるだろう。



 面白いことに3つの研究グループで結論が異なる。アイスランドのdeCODEジェネティス社のステファンソン博士らは「危険遺伝子を持っている人は、ニコチン耽溺(たんでき)に陥りやすい」という疫学データを示し、「それ故、タバコを常用し、肺ガンになる」と結論している。
 ところが残りの2つの研究グループは、この結論に反対している。「タバコと肺ガンは無関係だ」というのだ。特に国際癌研究機関のブレナン博士らのデータが象徴的である。タバコを吸わない人でも危険遺伝子を持っている人がいる。そこで非喫煙者についても遺伝子を大規模に調べたところ、「タバコを吸わなくても、危険遺伝子を持ってさえいれば、肺ガン発生率が高い」というデータが得られたというのだ。
 ややこしい話なので、いったんデータを整理してみよう。危険遺伝子を持っていることで身体に現れる効果は2つある。1つは、肺ガンの発生率の上昇。もう1つは、タバコへの依存性の上昇。要するに、「喫煙者は肺ガン率が高い」ように見えるのは、それはタバコを吸うからではなく、危険遺伝子を持っているからだ、という結論になるわけだ。
 その一方で、世間には「禁煙すれば肺ガン率が低下する」というデータもあるが、これも、禁煙しやすい人はもともと依存性も低いわけで、つまり、「はじめから危険遺伝子を持っていなかった可能性が高い」と説明できるというロジックになる。


強調は引用者による。2つもの研究グループが「タバコと肺ガンは無関係だ」といった!な、なんだって!!要するに、喫煙は肺癌の真の原因ではなく、喫煙と肺癌の相関関係は、危険遺伝子を介した見せかけの相関(偽相関)かもしれない、とそういうことか。

ここまで言ってなんだが、id:dekodekoさんが、ブックマークで指摘しているように、どの研究者も「タバコと肺ガンは無関係だ」なんてアホなことは言っていない。ブレナン博士らは、「タバコと肺ガンは無関係だ」ではなく、「危険遺伝子は、タバコとは無関係に、肺癌に寄与する」と言っているだけなのだ。池谷氏は論文を読んでいないのだろう。ブレナン博士のグループの論文*2の一行目には、"Lung cancer is caused predominantly by tobacco smoking, with cessation of tobacco consumption being the primary method for prevention."と書いてある。研究グループ間で意見の相違があるのは、、タバコと肺ガンに関係があるかどうかではない。まともな科学リテラシーを持った人間なら、喫煙が肺癌の主な原因であることを疑ったりしない。意見の相違は、危険遺伝子が肺癌に直接寄与している(ブレナン説)のか、それともニコチン依存を通じて間接的に寄与している(ステファンソン説)のかという点である*3
池谷氏がかような誤読をした理由の一つには、自然科学に対する独特な解釈があるのかもしれない*4



 現時点では、3つの研究グループの意見が割れている以上、私たちも結論を急いではいけないが、こうした意見の解離は、サイエンスの「営み」を考える上で、とても興味深い。つまり、科学(特に自然科学)には「因果関係は証明できない」という体系上の欠陥がある。この点は誤解をしてはならない。科学的に証明できるのは「相関の強さ」だけである。これは逃げられない事実である。
 そしてまた、脳には「相関の強い現象を見ると、そこに因果関係があると思い込む癖がある」という事実も同時に知っておきたい。因果関係は幻覚にすぎないのに、あたかも存在するかのように脳は実感する(これは別の機会に書ければと思う)。普段の生活では、因果律を盲信しておいて、ほぼ不都合はないが、サイエンスの現場では脳の癖の信者となっては危険である。脳の身勝手な解釈の奴隷となっては、真実を見誤る可能性があるからだ。


むろん、相関関係と因果関係を混同しやすい人間の傾向に対しては常に注意しなければならない。しかしながら、「自然科学では因果関係は証明できない」という主張はずいぶんと奇妙に思える。池谷氏は、有機水銀の摂取と水俣病の発症の因果関係は証明されていないとお考えなのだろうか。輸血とC型肝炎の発症の因果関係は?水道の普及による衛生状態の改善と感染症の減少は?そもそも、細菌が感染症の原因であることも証明されていないのだろうか。私は、そしておそらく多くの科学者は、自然科学は100%の正しさでは不可能にしても、場合によってはきわめて確度の良い方法で因果関係の証明ができると考える。危険遺伝子と喫煙と肺癌の因果関係についても、たとえば、危険遺伝子を持たない人たちの中で、喫煙者と非喫煙者の肺癌発症率の差を見れば、喫煙と肺癌の相関が危険遺伝子を通じた偽相関か否かを区別することは可能だ。むろん、「喫煙でも危険遺伝子でもない未知の要因Xが真の肺癌の原因なのだ」とは常に言えるわけであるが、それならば有機水銀と水俣病、輸血とC型肝炎、細菌と感染症の因果関係すらも疑うべきである。

多くの喫煙者はリスクを承知の上で喫煙するという選択をしてるものだと思うが、喫煙者のごく一部に肺癌と喫煙の関係を認めたがらない人たちがいる。そういう人たちでも他の疫学的な知見を受け入れていないわけではなさそうなので、喫煙ゆえにダブルスタンダードに陥っているように見える。喫煙のリスクを受け入れ難いがゆえに「脳の身勝手な解釈の奴隷となって真実を見誤る可能性」も考慮したいものだ。


*1:ちなみに今回の研究は池谷のいう連鎖解析ではなく、相関解析である

*2:Hung et.al, A susceptibility locus for lung cancer maps to nicotinic acetylcholine receptor subunit genes on 15q25, Nature 452, 633-637

*3:興味深いことに、タバコと肺ガンは無関係だとどうしても主張したいのであれば、池谷氏の解釈とは逆に、ブレナン博士ではなくステファンソン博士に肩入れすべきであるのだ。ブレナン博士らは危険遺伝子とタバコの依存性は無関係だ弱いと主張しているので、喫煙と肺癌の相関関係を説明できない。ステファンソン博士の主張に乗っかれば、「喫煙と肺癌の相関は見せかけの相関である。喫煙と肺癌のどちらも、危険遺伝子と相関しているだけだ」と主張できる。ステファンソン博士はそんなことは言っていないし、危険遺伝子とニコチン依存だけでは、喫煙と肺癌の強い相関は説明不可能なんだけど

*4:池谷氏が喫煙者であるかどうかにも興味があるが、その点については不明なので邪推は控えておく