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書評『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』

「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論 (単行本)



献本御礼。タイトルの通り、色覚についての自然科学、および、「色覚異常」*1と社会との関わりについて書かれた本だ。サイエンスの部分(第2部)も興味深いが*2、その部分の書評は他の方に任せて、社会との関わり、とくに医師が関わる部分について述べる。

かつて学校で先天性色覚異常の検査が行われていた。私も小学生のころ学校で色覚検査を受けたことがある。2003年に学校での色覚検査は学校健診の必須項目から削除されたそうだが、検査に使う石原式色覚異常検査表を見たことがある人は多いだろう。その後、私は医学部に入学したが、当時、色覚異常でも受験資格があったどうかは記憶にない。当事者でなければ気にせずにいられたわけだ。医学部では眼科学は学ぶが色覚異常はさほど深くは学ばない。むしろ遺伝学に関連して、ヒトの伴性遺伝の例として学んだことをよく覚えている。医師になってからも色覚異常が主訴の患者さんを診る機会はなかった。


色覚検査を以前のように行うべきだ、という意見が眼科医から出てきたことも本書を読むまでは知らなかった。学校健診で色覚検査が行われなくなったことで、色覚異常についての知識がない教員が色間違いをした児童に「ふざけていてはダメ」と不適切な注意をしたり、あるいは、生徒が就職活動のときにはじめて自分の色覚異常を知ったりした事例があるという。個別の事例をとりあげれば広く色覚検査を行うことで防げる不幸もあっただろう。どの児童に色覚異常があるかを教員が知っていれば適切な指導ができたかもしれない。また、前もって自分の色覚異常を知っておけばもっと早く別の進路を選べたかもしれない。

とはいえ、一律に広く検査をすればいいというものでもない。本書では、EBM(根拠に基づいた医療)の考え方に則って日本の先天色覚異常をめぐる臨床に疑問を投げかける。つまり、「先天色覚異常のスクリーニングは、それを正当化できるエビデンスに乏しい」(P241)。

日本では、というか海外でも、スクリーニング(=無症状者に広く検査を行い病気や異常を拾い上げること)の害は過小評価されている。専門家向けの教科書の序文のまず最初に「すべてのスクリーニングには害がある」と書かれているのは*3、スクリーニングの害が軽視されている現状に注意を促すためだ。もちろん、害だけではなく利益ももたらすスクリーニングもあり、利益が害を上回るスクリーニングプログラムが推奨される(べきだ)。しかしながら、利益が不明確なまま行われているスクリーニングもけっこうある。

検査そのものの害とスクリーニングの害は異なるのだが、検査そのもの害が小さいとスクリーニングの害も小さいと誤って考えられがちだ。先天色覚異常の検査そのものは検査表を見て数字を答えるもので害はほぼない*4。しかしスクリーニングの害は「偽陽性」「過剰診断」などがある。

偽陽性は、一次検査で異常の疑いがあったが精密検査で異常ではないと判断されることだ。先天色覚異常のスクリーニングにおける偽陽性は、がん検診の偽陽性と比べれば害の程度としては小さいものの、頻度は多い。川端は、学校健診で「色覚異常疑い」とされた児童において偽陽性の割合が男子で41~72%、女子で90~97%という報告を紹介している(P270-)。そもそも学校健診で使用されている検査表の正確な感度・特異度が調べられておらず、また精密検査においてもゴールドスタンダードであるはずのアノマロスコープがあまり使われていないという問題もある。

過剰診断は「治療しなくても症状を起こしたり、死亡の原因になったりしない病気を診断すること」と定義される。色覚異常の場合は、精密検査を行って異常と診断されたものの、もし検査を受けなければ一生涯色覚異常に気付かず、不利益を被ることもなかったケースを指すことになるだろう。色覚異常は連続的なものであるので、見落としがないように軽度のものまで診断するとそれだけ過剰診断が増える(そして、得てしてスクリーニングの害に無自覚な医療者は「スクリーニングには取りこぼしがあってはいけない」と考える)。異常というラベルを貼られること自体が本人の心理的負担になる*5。とくに色覚異常は治療法がないのでなおさらだ。加えて遺伝疾患であるので本人だけではなく血縁者、とく母親にも害が及ぶことがある。

著者の川端は従来型の先天色覚異常のスクリーニングの代案として「助言が必要な人を選び出し、必要な時に伝える」「環境を変える」を挙げる。前者は、たとえば、一律に色覚異常を拾い上げることを目的とせず、板書に使われるカラーチョークや教科書のカラー図版を識別しにくい児童を見つける簡易版の検査表の例が紹介されている。学校での生活で困る層を見つけて適切な助言を行うことを目的としている。後者の「環境を変える」は、赤の色相を朱色方面にずらした見えやすいチョークや、区別のつきにくい色の組み合わせを排除した教科書にあたる。いわゆる「色のバリアフリー」と呼ばれるものだ。色覚異常の児童を検査で見つけて対処するのではなく、はじめから色覚異常の児童がいても大丈夫なように環境を変えるのだ。

代案を講じた上でそれでもスクリーニングが必要だとする立場もあるだろうが、その場合、利益が害を上回ることを示す責任があるのはスクリーニングを推進する側である。人生の早い段階で自身の色覚異常を知ることで得られる利益もあるかもしれない。ただ、その利益はスクリーニングの害を上回るものなのか。あるいは、その利益はスクリーニングでなければ得られないのか。そうした評価がなされない以上は、「正当化できるエビデンスに乏しい」と言わざるを得ない。

スクリーニングの妥当性以外にも、色覚と社会の関係に関連することは多くある。遺伝子差別と優生学、障害の医学モデルと社会モデル、正常と異常の境界領域に対する医療化の問題などなど。本書はさまざまな問題を考えるヒントになるだろう。また、是非とも眼科医の先生方に読んでいただきたい。最後に、書評は固くなってしまったが、色覚のサイエンスが解説された本として楽しく読めることも付け加えておく。



2020年11月21日追記。「(負の)ラベリング効果」の定義についてはTAKESANさんの■医療における《ラベリング効果》 - Interdisciplinaryを参照してください。本エントリーの注にある「社会にある偏見からくる弊害を負のラベリング効果と呼んでいいのではないか」という意見は撤回します。


*1:本書では、色覚の多様性と連続性の観点から「色覚異常」という用語についての疑問も述べられる(P305)。本エントリーでは以降も色覚異常という用語を使うが、「」付きの用語であることは留意していただきたい。

*2:興味がある方は、本書の著者である川端裕人氏による■第1回 色覚はなぜ、どのように進化してきたのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイトのシリーズを読んでもいいだろう

*3:Angela E Raffle and J.A.Muir Gray, Screening: Evidence and Practice.より。訳書『スクリーニング―健診、その発端から展望まで』もあるが一部日本語訳が微妙なところがある。"All screening programmes do harm."という文章は警句となって多くの論文等に引用されているので検索していただきたい

*4:適切に行われればの話だが。プライバシーに配慮せず他の児童がいるところで行うといった不適切な検査はそれだけで害がある

*5:「負のラベリング効果」と呼ばれることがある。明確に定まった定義を発見することができなかったが、がん検診の偽陽性の害の例として挙げられることが多い。偽陽性や過剰診断に限らず、将来症状をもたらす疾患であっても負のラベリング効果は生じうると個人的には考える。また、本人の心理的負担にとどまらず社会にある偏見からくる弊害、たとえば、実際には業務のさまたげにはならないタイプの色覚異常であっても、ただ色覚異常があるというだけで就職を断られるようなことも負のラベリング効果と呼んでいいのではないか。