クリスマスおめでとう!さっそく脚気の話をするよ。脚気がカビ毒(マイコトキシン)に関係するとする説もいろいろであり、「カビ毒は衝心脚気様症状を起こす」という脚気とビタミン欠乏の関係を否定しないものから、「脚気の原因はビタミンB1欠乏ではなくカビ毒である」とするトンデモ説まで幅がある。ここでは、辰野高司著「カビがつくる毒 日本をマイコトキシンの害から守った人々」東京化学同人発行(1998年)、から引用する。東京化学同人発行という比較的信頼できる組織から発行され、手に入りやすい日本語の文献であり、著者の辰野が浦口健二(脚気がカビ毒に関係するという説の提唱者)の直系の弟子であるからだ。
辰野/浦口の主張は、要約すると、「ビタミン欠乏による脚気の存在も否定しないものの、衝心脚気はカビ毒が原因であり、明治の終わりから大正の初めにかけて衝心脚気が日本から消失したのは、公の米の検定によりカビに汚染された米が流通しなくなったためである」、というものである。辰野(1998)は、第三章「現在まで知られているマイコトキシン」において、まずシトレオビリジンを挙げる。毒性は戦時中に「人工カビ米」のメタノール・エキスを使って浦口健二によって調べられた。
この研究は戦後に純粋な化合物・シトレオビリジンによって追試され、メタノール・エキスで行われた結果と完全に一致したことで、その毒性が確認された。この追究の結果は浦口に徳川末期から明治にかけて日本で猖獗(しょうけつ)をきわめた”衝心性脚気”がカビ米と深い関わりがあることを疑わせた。この”衝心性脚気”がなぜ明治末期から大正の初めにかけての年代に無くなってしまったのかが彼には疑問であった。カビ毒で見いだした中毒症状は、その時代に発見されたビタミンBでは軽快しなかったからである。そこで、彼の「米とカビ」、「カビ米と脚気」についての気の長い「脚気病因論的研究」、「疫学的研究」へと発展した。そして、東京大学病院での「脚気による死亡例の解析」と「米の国家管理」との関係の追究へと彼を向かわせた。
米の国家管理が全国の30%に達した時期から衝心脚気の発生が減少し、ほぼ全国で米の管理が行き届いた1911年には、ほとんど衝心性脚気で死亡する患者が認められなくなったことを突き止めた。「米とカビ」、「カビと毒性」の関係が疫学的にも解明された。(P30)
カビ毒の一種であるシトレオビリジンが、実験動物に対して、衝心脚気と良く似た症状を引き起こすというのは事実とみなしてよい。厳密に言えば、実験動物の症状とヒトの衝心脚気で異なる点もあるのだが、種差をはじめとした条件の違いによるものかもしれない。
[病原細菌説、栄養素の不足説、毒物混入説のうち]最初に否定されたのが病原細菌説です。何の病原菌も発見されなかったからです。第二の栄養不足説の立場をとって研究したのが、エイクマン、ホプキンス*1、鈴木だったわけです。彼らの成功によって脚気の非常に大きな部分を占める多発性神経炎の問題が解決しましたが、そのために日本の脚気がすべて無くなったとはどうしても考えられないのです。確かに大正の初めのころには、日本で脚気で死亡する人はほとんどいなくなってしまったのです。しかし鈴木がオリザニンを発見し、三共製薬がオリザニン製剤をつくるようになったのですが、実際にオリザニン(ビタミンB1)が医療の場で使われるようになったのは、東京大学の島園医学部教授が脚気治療の場で使って効果が確かであると発表された1929年以降であり、それまではほとんど医療の場では使われることがなかったといわれています。(P53-54)
辰野によれば、農芸化学者の鈴木が発見したオリザニンに対して「百姓が作った薬」として蔑視した傾向が医師の間にあったこと、昭和10年代の終わりころにはビタミンB1の大量生産は可能であったがほとんど軍用であったこと、庶民にビタミン剤が豊富に提供されるのは昭和25年(西暦1950年)以後であるとのこと。また、毒物混入説の提唱者として、榊順二郎を挙げ、海水に汚染されカビが発生した米「沢手米」に、実験動物に数時間の間に麻痺を起こして死亡させる成分が含まれることを突き止めたと辰野は述べる。ちなみに、榊順二郎の実験は1890年台の話である。
これで見られる麻痺性の症状は、徳川末期から明治期にかけて認められた「麻痺を起こして三日くらいの苦悶のうちに死んでしまう急性脚気…衝心脚気…」を思わせるものであったのです。しかし、ビタミンBが発見されることに、不思議なことに日本からこの病気が忽然と消えてしまったのです。そのために、ビタミンBによって日本の脚気が克服されたように錯覚されてしまったのです。(P54-55)
ビタミンB1の発見と(衝心)脚気の消退が一致しているように見えるのは、見かけ上のものに過ぎないというのが、辰野の主張。
ビタミンB1欠乏によって慢性の脚気になることは認めている。脚気罹病率の図は浦口による1969年の論文*3からの引用と思われる。
すでにお話した榊医師が取り扱った「沢手米」は、明治になって米が幕府・藩体制での貨幣としての価値を失い、単なる商品となった「米」の流通のシステム革命のもとで、海水を掛けて目方を増させたもので、これを遠方から東京に送るというような悪徳商人が現れたのです。カビの生えた粗悪な米が東京で販売されて、経済的に恵まれない人々がそれを食べることになったのです。そんなこともあって、明治期の前半は脚気が猖獗(しょうけつ)をきわめたのです。統計の不備な時代であったのですが、浦口先生が信用のおけるものとして選ばれたもの(図16)をお見せしましょう。(この図は当時の脚気の罹病率を示す目安と考えて下さい。)ふつうアビタミノーゼ*2による脚気でも慢性化して心臓に障害を起こす場合がありますが、急激に死亡する例は比較的少ないのです。今お見せした図は脚気罹病率を示したものですが、先生は脚気と診断されてかつ急激に死亡した患者についての情報を知りたいと思われたのです。「衝心性脚気」といわれた脚気は、死亡する場合は発病後三日くらいで死亡することが報告されていたからです。(P59-60)
浦口先生の疑問に解決の糸口を提供された一人が三宅仁先生*4でした。浦口先生の親友のお一人で、東京大学の病理学の教授を勤めておられました。三宅先生が、病理学教室の業務でもあった、大学病院で死亡した患者の病理解剖の記録を丹念に調べ直されたのです。そして、浦口先生が行われたこのカビ毒投与による実験的人工衝心性脚気の動物に特徴的に見いだされた、「心室の異常な拡張」が病理所見として記載される「脚気による死亡患者」について調べられたのです。1902年から脚気での死亡患者がほとんど見いだせなくなった1929年までの、脚気による死亡患者の解剖した数を三年を一まとめにして示したのが、この図17なのです。図には矢印で「米の公の検定」という字が入っていますが、これについては次にご説明しますが、頭のどこかに止めておいて下さい。(中略)[日露戦争を含む三年間の脚気による死亡者の解剖例がその前後の三年間より少し減少しているのは]日露戦争の最中で大学病院における死亡患者(当然、解剖例も)が激減しているためです。このことを考慮すると、日露戦争を含む三年間の脚気による死亡者(解剖例)は比率から考えると非常に多いと思います。そこで先ほど、「矢印」のことを頭に置いておいて下さいと申しましたが、今度はそこに注目して下さい。浦口先生にもう一つ重大なデータが提供されました。それは農林省食料研究機関の助力でした。それによると、
- 公の米の検定は1901年にはただ一県で始められていたが、それ以前には全く行われていなかった。
- 脚気の発病率が高かった日露戦争の時代にはわずか数県を例外としてどのような米も全国で流通させることが許されていた
- 公の米の検定は1909年に全国の30%に達する件で実行されるようになったが、しかし、この段階になっても低質の米やカビ米は非検定地域を通って各都市の消費者にわたっていた。
- 大部分の米移出産地が行政上の調節を受けるようになったのは1911年である。
4番に該当する年がちょうどビタミンBの発見の年であるのも非常に面白いでしょう。
辰野の主張を改めて要約すると以下のようになるだろう。
- ビタミン欠乏により起こる通常の脚気と、急性の経過をたどる衝心脚気は異なる。
- カビ毒の一種・シトレオビリジンは実験動物に衝心脚気によく似た症状を起こす。
- 全国で米の管理が行き届いた時期に、衝心脚気で死亡する患者が認められなくなった。
- 日本での衝心脚気の消失はビタミンB1の発見では説明できない。
- 明治から大正にかけての衝心脚気の原因は、ビタミンB1欠乏ではなく、カビ米由来のシトレオビリジンである。
仮説として提唱するのであれば、問題はない。しかし、『十分に「衝心性脚気」と「カビ毒」と「お米」の関係が、余すところなく解明できた(P64)』、あるいは、『心臓障害による致死性の高い衝心性脚気がカビ毒によって発生することは証明された』『衝心性脚気はカビ毒で引き起こされるが、衝心性脚気以外の脚気はビタミンB1不足によっておきるとする「部分カビ毒説」がもっとも妥当性が高い*5』とまで言えるのかが問題である。「FAO文書に書いてある」のを根拠にするのは、それこそ『科学的であることが、「信」として表出される』ことに他ならない。辰野の主張のおかしなところのいくつかは、引用した部分だけでも指摘できるし、ネットを活用できる人ならなおのことである。私なりの解答のエントリーは今年中に書くつもりであるが、「科学的な考え方の資質はありますかのテスト」を受けるつもりで皆さんにも考えていただければ幸いである。