NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

臨床を教科書レベルに上げてもらわねば困る

近年、ようやく医療の限界についてマスコミ各社の理解も進んで来たかのように見えるが、それでも十分とはとても言えない。西日本新聞の2008年9月13日夕刊に大野病院事件についてのコラムが載った。まず、およそ20年前の福岡県内の公立病院で癒着胎盤のため大量出血で死亡したケースで、民事訴訟で最高裁まで争ったケースを紹介する。20年前は「癒着胎盤はまれなケースだから、医師の過失はない」という理由で遺族の請求は認められなかった。その後、大野病院事件について述べる。



この間、医学は進み、書物に癒着胎盤の記載が増えていた。帝王切開が増え癒着胎盤が増えているからである。医学生向けの「標準産科婦人科学」には「帝王切開の既往があり癒着胎盤が疑われる場合は、輸血確保の容易な輸血部がある施設で、麻酔医の管理下で帝王切開を行わなければならない。胎盤剥離で剥がれない場合や止血不能例では直ちに子宮全摘を行う」とある。
今回の事件では教科書通りには処置されなかったが医師は無罪。判決を読めば妥当な結論とはいえ、生命を預かる医療機関の責任は重い。実地臨床は教科書通りにはいかないといっても、臨床を教科書レベルに上げてもらわねば患者が困る。医療事故を減らす努力を怠ってはならない。
(ゆ)




西日本新聞2008年9月13日夕刊コラム「潮風」より引用


臨床を教科書レベルに上げてもらわねば患者が困ると書いているところからみて、コラムニストは、大野病院事件での臨床は教科書レベル以下であったと考えているのだろう。コラムニストが「妥当な結論」と書いている判決文*1には、



そうすると、本件では、D、E両医師の鑑定ないし証言等から、「開腹前に穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたもの、開腹後、子宮切開前に一見して穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたものについては胎盤を剥離しない。用手剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合には子宮を摘出する」ということが、臨床上の標準的な医療措置と解するのが相当である。


とある。要するに大野病院事件の臨床は日本では標準レベルだったというわけ。するというと、コラムニストは、日本の標準的医療レベルは教科書以下であり、教科書レベルに上げてもらわねば困ると言いたいのであろうか?教科書はいったい誰が書いていると思っているのだろう*2。実際のところ、「今回の事件では教科書通りには処置されなかった」というのも誤りである。



医学書に記載された癒着胎盤の治療および対処法をみると、用手剥離にとりかかる前から嵌入胎盤、穿通胎盤であることが明確である場合、あるいは剥離を試みても全く胎盤剥離できない場合については、用手剥離をせずに子宮摘出をすべきという点では、おおむね一致が見られる。しかしながら、用手剥離開始後に癒着胎盤であると判明した場合に、剥離を中止して子宮摘出を行うべきか、剥離を完了した後に止血操作や子宮摘出を行うのかという点については、医学書類から一義的に読みとることは困難である。


剥がれない場合は直ちに子宮全摘を行うとはあるが、剥がしはじめてからはじめて癒着胎盤とわかったときにどうするかは教科書には書いてないというわけ。教科書には書いていないのだから、「教科書通りには処置されなかった」とは言えない。医師の技量には差はあり、教科書レベルにすら達していない医療がなされることもあるだろうが、少なくとも大野病院事件にはあてはまらない。「臨床を教科書レベルに上げてもらわねば患者が困る」という指摘はきわめて不適切である。

大野病院事件の場合は教科書通りでないとは言えなかったわけだが、日常的になされる医療において、「教科書通りには処置されない」ことがある。教科書の内容が古かったり、個々の症例の事情により教科書通りよりも適切な方法があると判断されたりした場合である。この場合はむしろ、教科書より上のレベルの処置であり、一律に教科書通りの処置をされるほうが患者さんは困るであろう。著しく標準から外れる医療であれば十分に批判していただいてかまわないが、ちょっと教科書を読んだだけの素人が「教科書通りには処置されなかった。教科書レベルに上げてもらわねば患者が困る」などと批判するのは勘弁していただきたい。

*1:■大野病院事件・判決要旨■(にしてんま傍聴日記)より引用。以下判決文の引用はすべてここから

*2:ちなみに、■第十四回公判について(08/5/16)(周産期医療の崩壊をくい止める会)には、執筆者の竹田教授は、「胎盤剥離を試みるも剥がれなかった場合とは、嵌入胎盤や穿通胎盤などで胎盤全面が癒着していると胎盤は全く剥がれないことが多く、この際は躊躇なく子宮摘出を行うということ」と回答した。剥がれない場合には剥がれていないので剥離部分からの出血もなく、子宮摘出が可能である。また、止血不能例でも直ちに子宮全摘を行うとは「一部癒着している狭義の癒着胎盤や嵌入胎盤では、癒着した胎盤を剥がした後、止血できればよいが、できなければ子宮全摘する、ということである」と述べる。いずれにせよ胎盤剥離を途中まで行い、剥離部分から出血が始まっているのに、止血措置をせずに子宮摘出をせよなどという検察官の主張を裏付ける記述はどこにもない。とある。要するに教科書の執筆者本人から「検察の言うようなことは私は書いてないっす」というコメントをとってきたわけ