NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

受刑者の受ける医療

以前、受刑者が私の外来に受診したことがある。刑務官であろう、付き添いが3人もいた。逃げられたりしないよう、そのくらいの人数は必要だろう。普通の患者さんであれば診察・採血後、結果が出るまでの1時間くらいは待っていただくのだが、このケースではすぐにお帰りいただき、結果だけ刑務官の人が聞きにきた。3人を1時間も遊ばせておく余裕はないのだろう。結果を聞きにきた刑務官の一番の関心事は、かの受刑者が出所するまでの約1年間待てるかというものだった。幸いというか、出所を待って治療してもかまわない病状であった。もし治療を要する病状であれば、週に1回の通院をしたのだろうか。受刑者であっても、医療を受ける権利はある。しかし、週に1回、3人の刑務官をつれて通院させるのに必要なコストはどのくらいなのかということを考えた。ということを、以下のニュースを見て思い出した。


■受刑者の診療要請を拒否 出所後にがん 佐賀少年刑務所*1(朝日)


 佐賀少年刑務所(佐賀市、長野信行所長)に服役していた福岡市内の男性(37)が、所内で下血したことなどから「がんだ」と訴えたのに十分な診察を受けられず、出所直後に訪れた病院で進行した大腸がんと診断されていたことがわかった。服役中に発症していた可能性が高いという。男性は「刑務所内の医療対応のミス」として、近く国家賠償請求訴訟を起こす方針だ。
 男性は窃盗罪で懲役3年の判決を受け、03年7月に服役した。男性や代理人の弁護士によると、体調の異変を感じたのは04年4月ごろ。下血したため、刑務官に医師による診察を求めたが応じてもらえず、痔(じ)の薬を手渡された。
 その薬を半年ほど服用したが下血は止まらず、05年7月には大量出血。がんを疑った男性は改めて診察を求めたが、受け入れられなかった。12月に採血はされたものの、3日後に「がんではなかった」と告げられた。出所直前の今年1月半ば、所内に常駐する医師の診察を初めて受けたが、触診のみで痔と診断されたという。

30歳台でも大腸がんはありうるわけだから、下血があった場合は大腸の精査をすべきである。触診で痔があったとしても、大腸がんではないことは証明できない。採血で「がんではなかった」というのは意味不明であるが、腫瘍マーカーでも測定したのであろうか。腫瘍マーカーは偽陰性が多く、やはり採血だけでは「がんではない」とは証明できない。受刑者でも医療を受ける権利はある。いろいろ検索して私は今さっき知ったのだが、「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」というものがあり、その中に「社会一般の保健衛生及び医療の水準に照らし適切な保健衛生上及び医療上の措置を講ずるものとする」とある*2

こうして明文化されているところをみると、これまでの実情は、受刑者は社会一般の水準に照らして不十分な医療しか受けていないかったのだろう。受刑者であろうと医療を受ける権利はあるが、現実的にはかなり困難なのではないか。かような事件が問題になったからには、刑務官も受刑者から医師による診察を要求されたら断りにくかろう。しかし、刑務所内に常駐する医師の数は足りていない(参考:■「塀の中」も医師不足 受刑者の持病悪化も 法務省調べ*3(朝日))。医師が診察したって、刑務所の中ではろくな検査はできない。もし、今回の下血の症例を私が診察したら、「大腸がんの疑いがあるため大腸の精査を要す」と言う。

ただ、大腸の精査は大変である。前処置を含めると丸一日かかると思ったほうがよい。その間ずっと刑務官が3人付き添わなくてはならない。刑務所の職員が余っていていつも暇で暇でしょうがないのであればそれでもよいだろうが、そういうわけではなかろう。はっきり言えば、受刑者に社会一般の水準の医療を受けさせるには、さらなるコストが必要だ。今回のケースは「本物」だったわけだが、詐病だってあるだろう。私が受刑者なら、逃げるつもりはないにせよ、ちょっとシャバの空気を吸うために「これまでにない激しい頭痛がある。CTを撮ってくれ」とぐらいは言うかもしれない。少しでも「本物」の病気である可能性があるなら、刑務官も医師に診察させざるを得ない*4

受刑者に適切な医療を受けさせなかったことを批判する人は、受刑者の医療に必要なコスト(詐病に伴うものも含めて)を負担する気があるのかを明確にするべきだろう。社会全体での医療にかけるコストすら削減する方向にある。受刑者でなくても、経済的・地理的理由によって適切な医療を受けられなくなっている時代である。受刑者の医療にコストをつぎ込む前に、もっと別のところにコストをかけるべきという議論も当然ある。現在の日本において、受刑者が社会一般と同水準の医療を受けられるようにする唯一の方法は、受刑者が受ける医療の質の向上ではなく、社会一般の医療の質の水準を低下させることだろう。

*1:URL:http://www.asahi.com/national/update/0928/SEB200609270021.html

*2:http://www.ron.gr.jp/law/law/kei_juke.htm#2-5-iryou

*3:URL:http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200609050063.html

*4:予言しておく。これまでは軽症は刑務官レベルで止めていたところを、今後は「念のため」医師に診察させるようになる。これまでも医師にとって刑務所勤務は人気がなかったのだが、こうした「雑用」が増えることによって更に刑務所に勤務する医師が不足する。また、「本物」の病気を見逃すと責任を取らされるようになるため「念のため」病院での検査を勧めるようになる。要するに刑務官→刑務所医師→施設外の医療機関へのスルーパス。でも人は足らないので現場は混乱するだけ