NATROMのブログ

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われわれはロボットか?

松岡正剛の千夜千冊で、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が取り上げられていた(id:osamu_honmaさん経由)。まあ細部に関してはいろいろと言いたいことがあるけれども、よい書評だと思う。ここでは一点だけ指摘しておこう。


■松岡正剛の千夜千冊『利己的な遺伝子』 リチャード・ドーキンス


 たしかにドーキンスは「生物は遺伝子のためのサバイバル・マシンである」とみなした。生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎないと言ったのだ。しかしサバイバル・マシンだなんて、まるで生物は遺伝子に操られているだけで何の意志もないクルマのようだ。だからこの機械論的な見方はひどく冷徹に映った。日本版のキャッチフレーズにもこんな文句が刷りこまれた、「われわれは遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」。
 このキャッチフレーズにはいくぶん“まやかし”が入っている。盲目的にプログラムされているのはわれわれだけではなく、地上の生物のすべてだったのである。しかし、そうだとすると生物のすべてが遺伝子のためのロボットだということになる。やっぱりこんな冷徹な見方はない。ダーウィンがそんなことを主張していたとも思えない。
 べつだん擁護するつもりはないが、実はドーキンスはこのように書いてはいない。サバイバル・マシンだとは書いたけれど、ロボットだなどとは一度も書きはしなかった。ただ、読み方によってはそうとられなくもないことを書いた。

「ロボットとは書いていない」というのは単に松岡氏の思い違いで、ドーキンスはロボットだと書いている。1976年版のまえがきで、「われわれは生存機械‐遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ(We are survival machines -robot vehicles blindly programmed to preserve the selfish molecules known as genes. )」とあるのはドーキンス自身による言葉である。また、2章の最終段落でも、大昔の自己複製子が、長い時間かけてどうなったのかについて、有名な「派手な一節*1」を書いている。


今や彼らは、外界から遮断された巨大なぶざまなロボットの中に巨大な集団として群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡をとり、リモート・コントロールによって外界を操っている。彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という名で歩きつづけている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。(P42)[強調は引用者による]

言うまでもないが、「巨大でぶざまなロボット」とは生物個体のことであり、「巨大な集団として群がり」とは染色体のことであり、「曲がりくねった間接的な道」とはDNA→RNA→タンパク質を通じた遺伝子の発現のことである。長々引用してから言うのもなんだが、松岡氏の書評での文脈では、ドーキンスがロボットと言ったか言わないかは瑣末な問題である。サバイバル・マシンもロボットも、私にはそう変わりがないように思える。問題は、むしろ別のところにある。ドーキンスはロボットと(あるいは読み方によってはそうとられなくもないことを)書いた。それは、“まやかし”が入っているのか?それから、冷徹な見方なのか?

「まやかしは入っていない。冷徹な見方というのはある意味その通り。しかし、別に遺伝子を淘汰の単位とみなす考え方そのものが冷徹であるわけではない」というのが私の考え。もちろんのこと、「生物は遺伝子に操られているだけで何の意志もないクルマのようだ」などとはドーキンスは言っていない。特に人間については、遺伝子やミームとは違って、長期的な利益をとる知的能力があると論じている。「ロボット」という言葉は、遺伝子によって行動が決定されているという印象を与えるが、ドーキンスはそのような遺伝的決定論は否定している。「われわれはエレクトロニクスの黄金時代に生きており、ロボットはもはや、頑固で融通のきかない愚か者ではなく、学習し、思考し、創造する能力をもっている(P432)」。

松岡氏の書評では、盲目的にプログラムされたロボットという部分がハイパーリンクになっていて、そのリンク先は星新一のボッコちゃんの書評である。まさしく、ロボットという言葉が頑固で融通のきかないというイメージと結びついている。ドーキンスにたとえ話の才能を授けた悪い妖精のしわざだ。実際にはドーキンスがロボットという言葉で伝えたかったのは、頑固で融通がきかないことではなかった。「利己的な遺伝子」の補注と、「延長された表現型」の第二章に詳しい。プログラムしだいでロボットが十分賢くなれるように、生物も十分賢くなれる。「盲目的なのは遺伝子であって、遺伝子がプログラムした動物ではない」。

「ドーキンスは〜とは書いてない」と言われれば、反論するのは比較的容易だけど、「ドーキンスは〜と書いた」と言われると、反論するの難しいよね、という話をしたかったのだが、長くなった上に、違う話になってしまった。

*1:後の版では「この派手な一節(私にしてはめずらしい-いや、かなりめずらしい-遊び)(P432)」となっているが、日本語版第一刷では「この華麗な一節(すばらしい-いや、かなりすばらしい-道楽)」であった。ちなみに原著では"The purple passage (a rare -well, fairly rare- indulgence) "である。「華麗」と訳したくなる気持ちは分かる