NATROMのブログ

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「少子化は回復する」数学的証明、続き

書かれていない要旨を読み取るのが上手な紫藤ムサシさんの


■「少子化は回復する」数学的証明(科学で政治・社会を考える:論理政治科学研究室)


に対して、批判的なエントリーを行ったところ、お返事があった。


■バカにつける薬(科学で政治・社会を考える:論理政治科学研究室)


なんと続くのだ。長文の上、あんまり面白く無いけれども、行きがかり上しょうがない。落ち着いたら、「よくあるドーキンスの誤解」という感じで要点をまとめよう。



 4月30日 「ゲームの理論」と少子化
 10月5日 「少子化のウソ」を社会生物学から見る
 を”わざわざリンク”して表示しております。
 これに対しては「全く言及が無い」のは、どうしたことでしょうか?

ムサシさんの【「少子化は回復する」数学的証明】の誤りを指摘するだけなら、不要であるからだ。間違いがいっぱいある(ほんとうにいっぱいある)ので、おいおい指摘していこう。



 「利己的な遺伝子」の”184〜185p”に
 「・・・物質的資源を一切持たぬ夫婦が多数の子を女性の生理的限界まで産み育てようとしても、実際のところこれを阻止する手段はないのだ。しかし、そもそも福祉国家というものはきわめて不自然なしろものである。・・・子供に対する生活保障の特権は決して濫用されるべきものではないのである」
 とあるのを引用して私は
 「少子化は放って置いても、自然に回復する」
 と解釈しました。

なぜそのような解釈が可能なのか、理解に苦しむ。ドーキンスは、一般論として、利他的なシステムの脆弱性を指摘しているだけである。他のあらゆる利他的なシステムと同様に、生活保障のシステムも、フリーライダーによって濫用される恐れがあるがゆえに、なんらかの管理を要する。そうしないと、将来利他的システムを必要とする人がその恩恵を被れない。ドーキンスは、女性の子供の数の個体差に遺伝子が寄与するとは言っていないし、ましてや「少子化は放って置いても、自然に回復する」とは解釈できない。

むしろ、こうした生活保障を必要とする人の存在は、現代社会の女性が持つ子の数の個体差に遺伝要因はそれほど寄与していないことを示唆する。国家の介入がなければ生き残れないほどの子を産む女性は、「遺伝子によって突き動かされて」そうしていると仮定しよう。さて、彼女はその「超多産」の遺伝子を、彼女の親から受け継いだわけだが、だとしたら、彼女の母親(あるいは彼女の父親の母親などの祖先)も生活保障を必要としたはずである。

福祉国家ができたのは、とくに進化の観点から言えば、きわめて最近である。ヒトは生活保障など存在しない環境下で進化してきたのだ。超多産の遺伝子は、定義上、生活保障が存在しない環境下では淘汰される。もし超多産のような遺伝子がかつて存在したとしても、淘汰されてとっくに無くなってしまっているはずである。以上から示唆されるのは、超多産の遺伝子など存在せず、生活保障を必要とする女性は環境によって多数の子を産むようになったということだ。だとすると、国家によって養われた彼女の子供たちは、環境次第では、将来自分たちの親ほどは多くの子は持たなくなる。

上記のような反論を踏まえて、ムサシさんは、いったいどうしてドーキンスの引用部分が「少子化は放って置いても、自然に回復する」と解釈できるのか、説明する責任がある。知力が足りないのは果たしてどちらであろうか。



 「(少子化は自然に解消するなどと)誰が言っているのか!?」
 と。私はすぐさま返答しました。
 「ドーキンスの <利己的な遺伝子> だ!」
 と。これに汐見氏は答えて
 「それなら( ドーキンスの理論 は)私が 徹底的に反論 している!」
 と言って、逃げるようにその場から去って行きました。ちょうど公聴会も終了時刻・昼ごはんの時刻をとっくに過ぎていましたので、その場は私もそれ以上深追いはしませんでしたが。

汐見氏は、「ドーキンスはそんなことは言っていない」と反論するべきであった。検索してみたら、汐見氏は著作で利己的遺伝子説について触れている。もしかしたら、汐見氏は、なにか誤解に基づいてドーキンスに反論しているのかもしれない。機会があれば読んでみる。(追記:読んでみた。)

汐見氏がどうかは別として、フェミニストや左翼とされる人たちの一部に、ドーキンスや社会生物学に対して、的外れな批判する人たちがいるのは知っている。彼らは、たとえば、「人の一生は”生まれたときに大半は既に決まっている”(遺伝子的に)」などとドーキンスが言っているかのように誤解した上で批判しているのだ。そうした誤解が生じる原因の一つは、右寄りな思想を持っている人たちの一部に、同様な誤解をした上でドーキンスを支持している人たちがいるからであろう。思想的に右か左か、フェミニストであるかそうでないかとは無関係に、科学・生物学を分かった人であれば、人は遺伝子的に決まっているわけではないこと、「多産系の女性の頻度が増えることで少子化は自然に回復する」などとは必ずしも言えないことに、同意するであろう。



 「利己的な遺伝子」では、ドーキンスは
 「少子化は”多産系の女性”によって解消する」と言っている
 と解釈するのが、保守(私)・左翼(汐見教授)共に一致した結論のはずです。
 ただ私は「ドーキンスが正しい」と言い、
 汐見教授が「ドーキンスは間違っている」
 というところが違うだけです。

汐見教授が本当にドーキンスをそのように解釈しているのであれば、ムサシさんも汐見教授もどちらも間違っているのであり、同じ穴のムジナにすぎない。保守/左翼で分類するのではなく、トンデモかそうでないかで分類するべきである。前者に分類されるのは、汐見教授(ムサシさんの指摘が事実だとして)、ムサシさん、竹内久美子である。



 2)[「多産系の遺伝子がある」という証拠・証明がない。]につきましては、「遺伝子自体が発見されたのが40年ほど前」に過ぎませんし、「ヒトゲノムの解析」が終わったばかりですので、多産系の遺伝子は確定されてはおりません。しかし「多産系の遺伝子がない」という証拠もありません。しかし”遺伝があること”は事実です。私は埼玉県狭山市在住の方の 「多産系の家系図」 を見たことがあります。その方は古稀の祝いを”(孫・曾孫の人数が多いので)ホテルを借り切って”されたそうで、家系図を見る限り 「皆さん・子供を沢山産んで」 いましたよ!
私の主張の要旨としてはやや不正確である。正確には「現代社会の女性の子の数の変異に遺伝的な要因が寄与するという証拠がない」である。比較的些細な点であるが、もしかしたら後に表現の仕方が問題になるかもしれないので、一応指摘しておく*1

「遺伝子自体が発見されたのが40年ほど前」という文章は意味不明である。推測するに、ワトソン/クリックによるDNAの二重らせん構造の解明のことを指しているのであろうが、二つの点で誤りである。ワトソン/クリックによる発見は50年以上前である。遺伝子の存在そのものはDNAのらせん構造の解明以前に知られていた。瑣末な指摘ではあるが、ムサシさんの科学の素養の程度を知る参考にはなるだろう。

「多産系の遺伝子は確定されてはおりません」。遺伝子を確定せよと言っているのではなく、遺伝要因の関与を示せと言っている。ヒトゲノムの解析以前より、遺伝学的な方法によって、ヒトのさまざまな形質について遺伝要因の関与が示されてきた。もともとのコメントでも、双生児研究や養子研究について言及してある。

「多産系の家系図」。環境要因の影響をどのように否定したのか。たとえば、子を産むのを是とする文化を家系が伝承してきたという可能性を否定する必要がある。あるいは、こちらのほうの可能性が高いと思われるが、子の数がランダムであっても、たくさんある家系の中には、子沢山・多産の家系もあるだろうし、そうでない家系もあるだろう。多産の家系を一例提示しただけでは、遺伝要因の存在を証明したことにはならない。ムサシさんは、遺伝学についてどれくらいご存知なのか。

最後でも述べるが、多産の遺伝子の存在については根本的な疑問がある。仮に多産をもたらす遺伝子が存在したとして、選択によって頻度を増し、とっくに集団に固定していないのはなぜか、という疑問にムサシさんは答える必要がある。条件付戦略か、新しい突然変異であるかを仮定しなければ答えられないと思う。そのどちらについても、重大な欠点を指摘できる。



 3)[人間は”遺伝子によって”ではなく、”自由意志によって”行動する。それが「利己的な遺伝子」のドーキンスの主張である。]につきましては、ドーキンスは「利己的な遺伝子」の中で
 「遺伝的決定論者」でも「自由意志の信者」でもない!
 とハッキリ・言っております(522p)。 
私の主張の要旨として、「人間は”遺伝子によって”ではなく、”自由意志によって”行動する。それが「利己的な遺伝子」のドーキンスの主張である。」というのは、不正確である。私のコメントを読めば分かるように、子の数についても、私は遺伝子要因の存在は不明であるとは述べているが、必ずしも否定していない。環境要因が強く影響していることが確かである上、遺伝要因が存在しているかどうか不明なのに、遺伝子が決定している仮定に基づく「証明」の不備を指摘しているだけである。そのような証明は、「一番確か」でもなく、相対的に確かですらない。

私の立場は、「現代人の行動には、遺伝子がほぼ決定しているようなものもあれば、強く影響しているものもあれば、ほとんど影響してないものもある」というものである。おそらくドーキンスもそういう立場に立つであろう。「遺伝子が決定しているとは限らない」と述べただけで、「人間は”遺伝子によって”ではなく、”自由意志によって”行動する」という要旨にされてしまうのは心外である。ムサシさんですら、「遺伝子から完全に自由である」か、もしくは、「遺伝子によって決定されている」の単純な「二元論」が誤りであることには同意できるであろう。

自由意思の問題については、「素人*2」の訳した本で申し訳ないが、デネットの「自由は進化する」を参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20050812#p1



 「理論的・論理的に考えて、矛盾がなければ、 ”理論の完成” としても良い」
前回は、「ドーキンスの言っていることとちゃうやん」というのが主な趣旨であったため、いちいち指摘しなかったが、【「少子化は回復する」数学的証明】には矛盾がある。第一世代を「少産系女性4人・多産系女性1人」が居る状態と定めているが、その前の世代はどうだったのだろう。その前の前の世代は?よしんば、子の数が遺伝的に決定されているという前提が正しいと仮定しても、とっくの昔に少産系の遺伝子が淘汰されてなくなってしまっていないのはなぜか、ということを説明していない。

なんらかの条件付戦略を持つ遺伝子を仮定すれば、当座の問題は解決できるであろう。しかし、単純さという(ほぼ唯一といっていい)利点を失うだけでなく、結論に重大な影響を与える。条件付戦略とはつまり、同じ遺伝子を持っていても、環境によって子の数が変わるということである。子を4人産む女性もいれば、1人しか産まない女性もいるだろうが、それは遺伝子の差によるものではなく、環境の差によるものである可能性を認めなければならなくなる。遺伝子の差がなければ、淘汰は働かない。ムサシさんの証明は破綻する。


追記(2005年11月3日)
進化生物学の誤用を考えるで、この問題について論じてます。


追記(2010年10月23日)
■「理系保守」ブログをウォッチングするためのガイドで、紫藤ムサシさんの主張について検討しています。

*1:かつて、女性の持つ子の数に影響する遺伝的変異が存在したという推測は妥当である。その遺伝的変異は淘汰によって使い果たされたかもしれないし、まだ残っているかもしれない。ムサシさんの証明は、なんの証明もなしに後者を前提にしているのが問題。

*2:要らぬ注だが念のため。ムサシさんが山形浩生を「素人」と評しているのを皮肉っているのだ。