NATROMのブログ

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「少子化は回復する」数学的証明

なかなかすごいブログを見つけたよ。「エセ科学・学問」を検証し、告発するサイトであるところの、科学で政治・社会を考える:論理政治科学研究室。ブログ主の紫藤ムサシ*1さんは、左翼嫌い・フェミニスト嫌いという点では、”インテリジェントデザイン理論(ID理論)にはまっちゃった”渡辺久義・京大名誉教授と似ている。違うのは、社会生物学やドーキンスを支持しているという点だ。でもね、本当は紫藤ムサシさんは、社会生物学の「ようなもの」を支持しているだけで、現在のオーソドックスな進化生物学を支持しているわけではない。たとえば、こんなエントリー。


■「少子化は回復する」数学的証明*2(科学で政治・社会を考える:論理政治科学研究室)


 「少産系の女性は”2人以下”の子供」しか産みませんし、
 「多産系の女性は”2人以上の子供」は産むのですから!
 「放って置いても、自然に少子化は解消する」
 と言うことです。これは
 R・ドーキンス「利己的遺伝子」:紀伊国屋書店(私のサイドバー:学術・教養書にあり)
 竹内久美子「そんなバカな!」(第三章6”出生率は低下しない”:文春文庫)
 にも書いてありますが、私のこの説明のほうが分りやすいでしょう?(フォ〜ッ! 笑)
要するに、女性の持ちうる子の数が遺伝的に決定されているのであれば、選択によって多産系の女性の数が増えるにつれ、出生率は上がり少子化は解消すると言っている。確かに、竹内久美子はそんなこと書いていた。でも、ドーキンスがそんなアホなこと書いていたっけ?ドーキンスは「利己的な遺伝子」では、ミームに関する章を例外として、人間の行動に関してはほとんど述べていない。人間は将来を見通す能力を持っているがゆえに、遺伝子やミームのような「盲目の」自己複製子に反抗できると述べているくらいだ。わずかな例外として、第7章「家族計画」で、文明国では福祉国家による介入によって自然に養いきれる数以上の子を持つ親がありうることを述べているにすぎない。人間の場合に、子の数が遺伝的に決定されるかどうかはもちろんのこと、子の数の変異に遺伝的要因が関与しているかどうかすら述べていない。

紫藤ムサシさんの「数学的証明」は、現在の女性の持つ子の数が遺伝的に決定されていることが前提になっている。コメント欄でも指摘されているが、もし子の数が遺伝的に決定されているならば、そもそもが少子化という現象は起こらなかったはずである。女性が持つ子の数は、環境要因の影響を受けることは確かである。環境が変わらなければ、少子化傾向がずっと続くということは十分ありうる。急激な人口の低下が社会に対して悪影響を及ぼすのであれば、環境を変えるために少子化対策に税金を投入する妥当性はある。*3

そもそも、紫藤ムサシさんは、本当に「利己的な遺伝子」を読んだのか、疑問である。竹内久美子の本は好きで、ほとんど読んでいるそうである。それはたいへん納得できる。科学で政治・社会を考えるのは一向にかまわんが、竹内久美子を根拠するのは勘弁してくれ。案の定、コメント欄で、


これではまるで竹内久美子さんの論説と同じです。
彼女は学者というよりは学者もどきのエッセイストであり、ちゃんとした知識のある人からは彼女の本はトンデモ本と評されているのをご存じないのでしょうか。
名前: ゆー | 2005年10月25日 午前 01時29分
と指摘されている。「まるで竹内久美子さんの論説と同じ」で、批判として十分すぎるのだが、当然のごとく分かってもらえない。


 今回の「多産系・少産系」の説はR・ドーキンスの「利己的遺伝子」に書いてあることです。それをお読みになれば分りますが
 「昔は”女性の仕事は子供を産むこと”と言われていたが、近代社会になって女性の地位が向上し”産みたくない女性”は本当に産まなくてよくなった」
 とドーキンスは「先進国における最近の少子化」を説明しております。
 「文化」という第二の遺伝子(ミームと言います)がそのように変化したからです。
 「竹内久美子さんをバカにする本」(宝島社)を私も読みましたが、「全然”生物学・動物行動学”を分っていない!」というのが私の感想です。
名前: 紫藤ムサシ | 2005年10月25日 午前 02時22分
という、お返事。仮に、ドーキンスが女性の地位向上が少子化の原因であると述べていたとしても*4、少子化は回復するという「証明」とは関係がない。女性の地位向上が続けば、少子化は改善されないわけでしょ?「ミーム」を持ち出すのは、むしろ「証明」の不備を示すのに役に立つ。たとえば、「少子化」ミームが、子育てに時間を割く必要のない女性により積極的に伝えられる結果、ミームプールの中で成功しているのであれば、時間は少子化の解決にならない。「数学的証明」ってのなら、現在の少子化がミームによるものではないってことを証明しないとね。

竹内久美子のような間違った科学で政治・社会を語ることは批判されるべきである、と私は考えるがゆえに、今回とりあげた。ドーキンスの主張を捻じ曲げているのが許せんという動機もあることは否定しない。結局のところ、竹内久美子や中原英臣の本を読みかじった左翼嫌いが、あいまいな知識で自分の嫌いなイデオロギーを攻撃しているというのが実情だろう。しかし、以下のような文章をみるにつけ、壮大なネタという可能性を否定しきれないでいる。本当にすんごいんだから。



 私は「ウイルス進化説」が一番有力だと思いますが、「それはどのウイルスか?」ということもまだ特定されては居りません。ですから進化論でさえ決定的な学説は無いというのが現状です。これが現在・アメリカで「反進化論」が教育界で問題になっている理由です。
http://houkoku.air-nifty.com/busi/2005/10/post_3e11.html
ウイルス進化説が一番有力と思う」んだってさ。それから、反進化論がアメリカ合衆国で問題になっている理由の第一は、宗教的・政治的なものだと思うぞ。「決定的な学説がない」のが理由なら、どうしてアメリカ合衆国以外の国で問題になっていないの?ていうか、お前は本当にドーキンスを読んだのかと小一時間…。



 ”遺伝子の共有”の下に国民を統合するのがナショナリズムなのです。
 そしてナショナリズム(民族主義・愛国主義)を理念として構成されたのが「保守主義」なのです。
 神風特攻隊の青年たちが自分を犠牲に出来たのは、
 ”後に残る「自分と共通の遺伝子を持った国民」に対する共感・共同体意識があったからこそです!
http://houkoku.air-nifty.com/busi/2005/10/post_97c9.html
ドーキンスが「利己的な遺伝子」の中で、口を酸っぱくして、群淘汰を批判しているのを読まなかったのか。「遺伝子の共有」を、民族や国までに広げるのであれば、いっそのこと人類全体に広げたらどうか。我々人類は、国籍・民族を問わず、99%以上の遺伝子を共有しているぞ。



 「利己的な遺伝子」の著者・R.ドーキンスも「遺伝子決定論ではない。我々人間は遺伝子を超える力がある」と言っております。
 「(遺伝子の)欲望にのみ生きる」のではなく「命を捨てても守るべきもの」を見出すのが人間としての「高貴な精神」なのではないでしょうか!
http://houkoku.air-nifty.com/busi/2005/02/post_1.html
引用元のブログは、以前は「ブログ・カミカゼ:燃えよ!ニッポン:武士の国!」というタイトルだったんだけど、このタイトルで「命を捨てても守るべきもの」と言われたら、連想するものは一つだよね。たしかにこのような「高貴な精神」について、ドーキンスは述べている。最後に、「利己的な遺伝子」から引用して終わるとしよう。

どんな対象であれ信仰は人々を強く帰依させ、極端な場合にはそのためにそれ以上の正当化の必要なしに人を殺し、自らも死ぬ覚悟をさせてしまうのだ。「ミームに取りつかれて自分の生存も危うくするにいたった犠牲者」を呼ぶのにキース・ヘンソンは「ミーメオイド」という新語を作った。「ベルファストやベイルート発の夕方のニュースにはそのような人々がたくさん登場する」。信仰はきわめて強力で、同情や、寛大さや、上品な人間的な感情へのあらゆる訴えかけにも人々は動じなくなる。(P521)

*1:URL:http://houkoku.air-nifty.com/about.html

*2:URL:http://houkoku.air-nifty.com/busi/2005/10/post_e13a.html

*3:同じ理由で、長期的に自然に少子化は解消するという結論が正しいとしても、少子化対策に税金を投入する妥当性はありうる。

*4:ドーキンスが「産みたくない女性は産まなくてよくなった」などと述べた部分は私の記憶にない。どなたかご記憶なら、どの文献のどのあたりかご教示ください。