NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

低学歴ほどダーウィン進化論を信じない

■米国人が信じるのは「進化論」より「悪魔」(ロイター)というニュース。「地獄や悪魔を信じる人は62%」に対し、「ダーウィンの進化論を信じていると答えたのは全体の42%」という結果だったため、かような見出しになっている。以前の調査と比較してもそう大した違いはなく、代わり映えしない。日本では、というか、たいていの先進国では、ダーウィン進化論を信じている人の割合はもっとずっと多い。アメリカ合衆国が特殊なのだ。

アメリカ合衆国においても、創造論を支持しているのは主に低学歴の層である。2005年4月28日号のNature誌がインテリジェント・デザイン説の特集をしたときの、"Who has designs on your students' minds?"(Nature 434 P1062-1065)という記事の中の、"Support for Darwin increases with level of education"というFigureを引用する。



文脈からアメリカ合衆国での調査結果と思われる。進化論が証拠によって十分に支持された科学理論であると信じる人の割合を、学歴別に示してある。"High school of less(高校もしくは高校以下)"では20%であるのに対し、"Postgraduate education(大学卒業後教育)"だと65%になる。明らかに、低学歴ほどダーウィン進化論を支持せず、逆に高学歴ほどダーウィン進化論を支持する傾向がある。

"Postgraduate education"ですら65%というのがさすがアメリカ合衆国である。理系、あるいは生物学関係に限れば、65%よりも高くなるであろう。教育によってダーウィン進化論を支持するようになった結果なのか、それとも、もともとダーウィン進化論を支持するような層が進学した結果なのかは分からない。


池田信夫氏からの反論


池田信夫氏は進化生物学を理解していない、という指摘に対して、池田信夫氏からの反論があった。同じパターンのナンセンスな話が繰り返されることになりそうな予感。


■利他的な遺伝子(池田信夫 blog)


これだけ読んでも、彼が自称する「生物学の専門家」ではなく、アマチュアにすぎないことは一目瞭然だ。まず彼は、遺伝子を共有する個体を守る行動を説明したのが「ドーキンスの利己的な遺伝子」だと思い込んでいるようだが、これはドーキンスの理論ではなく、ハミルトンの非常に有名な論文(1964)によって確立された血縁淘汰の理論である。ドーキンス(1976)は、その理論を「利己的な遺伝子」という不正確なキャッチフレーズで普及させただけだ。

ドーキンスが個体レベルの利他行動を遺伝子レベルの利己性によって説明したのは事実だろう。もちろん、血縁淘汰の理論を確立したのはハミルトンである。ドーキンスはハミルトンの理論を援用して「利己的な遺伝子」を書いたに過ぎない。「利己的な遺伝子」にもハミルトンの名前はたくさん出てくる。そんなことはとっくに存じ上げている。後出しで負け惜しみを言っていると疑うのなら、私の日記をハミルトンで検索してみればよろしい。

「利己的」「利他的」という用語が不正確だとして*1、その「利己的」「利他的」という言葉を持ち出したのは池田信夫氏。ドーキンスのキャッチフレーズを持ち出して「種を守る『利他的な遺伝子』」などというトンチンカンな説明がなされていたので、ドーキンスはそんなこと言っていないでしょうと指摘したのだ。それが、池田氏の脳内ではなぜか「NATROMは血縁淘汰がハミルトンの理論であることも知らないらしい」ということに変換されたようだ。



「いまどき種淘汰か」って何のことかね。「種淘汰」なんて概念はないのだが。彼のいおうとしているのは、群淘汰(あるいは集団選択)のことだろう。

「種淘汰」なんて概念はないのですかそうですか。池田氏にとったら、天動説なんて概念もないのであろう。「概念がない」「概念が否定された」を区別しよう。まあ、概念がないでもいいし、否定されたでもいいけれども、とにかく、「種淘汰」と「群淘汰(あるいは集団選択)」とが異なるものであるというのはいいよね?後者については、池田氏が紹介している(たぶん理解はできていない)Sober-Wilsonで扱われている。で、池田氏はどのように書いたか。



動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるものと考えられる。

Sober-Wilsonの本をちゃんと理解している人は、絶対に種を守るなんて書かないと思うぞ。種淘汰なんて概念はなくても、「個体を犠牲にして種を守る」なんて概念はあるのかね。まさしく、「エイズ菌」レベルの間違い。「エイズは細菌によるものだ」と書いてあるのを馬鹿にして「エイズ菌かよ」と指摘したら「エイズ菌なんて概念はない」などと反論された気分。



E.O.ウィルソンによれば、遺伝子を共有する親族の利益をBk、集団全体の利益をBe、血縁度(relatedness)をr、利他的行動のコストをCとすると、

rBk + Be > C

となるとき、利他的行動が起こる。ここでBe=0とおくと、ハミルトンの理論になる。つまり多レベル淘汰理論は、血縁淘汰理論の一般化なのだ。

それでWilsonとSoberは、動物の母親が命を捨てて子供を守る行動を、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるもの、なんて言ったのかな?池田信夫に問う。いったいなんでまた、「集団を守る」でもなく「個体群を守る」でもなく、「種を守る」なんて書いたのか?池田氏こそが、古典的な群淘汰と、現在議論になっている「多レベル淘汰理論」との違いを理解していない証拠に思えるのだが。

追記:2007/4/29

池田信夫先生は、いったいなんでまた、「集団を守る」でもなく「個体群を守る」でもなく、「種を守る」なんて書いたのか?という質問に答えられず、遁走のようである。予感は当たりつつある。池田氏によるコメントより引用。



彼の話がお笑いなのは、「『種淘汰』なんて古い。ドーキンスが正しい」というアマチュアらしい夜郎自大の主張をしていることです。実際は逆で、この知識そのものが古いということを実験の例まであげて説明したのに、これについては何も反論できないで、最初の記事と同じ話を繰り返すだけ。Sober-Wilsonを読んだかのごとく書いている(読んだとは書いてない)が、本当に読んだのなら、ちゃんと反論してみろよ。

「『種淘汰』と『群淘汰(あるいは集団選択)』とは異なるだろ。群淘汰はあってもいいかもしれんが、それにしても『種を守る』ってどういうことよ?いくらなんでも酷くねえか?」とちゃんと反論していますがな。反論できないのは池田氏のほうである。Sober-Wilsonの本に書かれているような多レベル淘汰は新しいが、種淘汰なんて古いのは当然のこと。多レベル淘汰を理解するにはまず、その基礎となるハミルトンの理論を理解しておく必要があるのだが、「種を守る『利他的な遺伝子』」なんて書いちゃう人が理解しているとは思えないというのが元々のエントリーの主旨。Sober-Wilsonを読んだのなら、ちゃんと『(個体群や集団ではなく)種を守る』ような行動や遺伝子があるのか示してみてはどうか。できないから逃げるしかないのをわかってて言っているけど。

「ドーキンスの言説がすべて正しいとする立脚点そのものの脆弱さ」などどブクマコメントしていた人もいたけど、ここではドーキンスがすべて正しいなどと主張している人はいないのだ。ハミルトンやドーキンスが否定した群淘汰とは異なる、もっと微妙な形での新しい群淘汰理論があるのは承知の上。でもね、そういう新しい群淘汰は、かつて否定された群淘汰とは異なるものだ。だから、群淘汰ではなく、集団淘汰とか、多レベル淘汰とか名称を変える努力をしている。そういう努力を、本を一冊か二冊読んでわかった気になったどっかのアマチュアが「を守る『利他的な遺伝子』」などと書いて台無しにしたのを笑っているの。

医師である私が生物学を語ると、『??』なことも多いかもしれない。ただ、『??』なことも多いなどと言いつつ具体的な指摘がなければ、私が間違っているのか、それとも「ケチをつけたいけど能力的に無理なので、専門家を自称してNATROMの発言の信頼性を貶めよう」という意図があるだけなのか区別できないので、適宜指摘してくださるとありがたい。どっかのブログのように、都合の悪いコメントを検閲して載せなかったり、自分の間違いが明らかになってしまうトラックバックを削除したりはしません。



追記:2007/10/18
「池田先生が勘違したか、NATROMの主張をすりかえたのかではないか、説明を求む」という大学生さんのコメント*2に対し、池田先生が長い時間をおいて返事をされた(返事になっていないのであるが)。


このNATROMなる人物は、群淘汰という言葉を知ったかぶりで使っているだけで、理解していません。「集団選択と群淘汰」などと書いているのが、その証拠です。これは両方ともgroup selectionの訳です。*3

私は「集団選択と群淘汰」などとは書いていないので、池田氏が私の主張をすりかえたのかと思ったが、おそらくは私の、


でもね、そういう新しい群淘汰は、かつて否定された群淘汰とは異なるものだ。だから、群淘汰ではなく、集団淘汰とか、多レベル淘汰とか名称を変える努力をしている。そういう努力を、本を一冊か二冊読んでわかった気になったどっかのアマチュアが「種を守る『利他的な遺伝子』」などと書いて台無しにしたのを笑っているの。

という主張を受けてのことだと思われる(それ以外には思い当たる発言はない)。さて、三中信宏(三中が専門家だということには池田氏も納得してくれるであろう)による書評に、


辻さん[今年の生態学会・宮地賞の受賞者の一人である辻和希(富山大・理)]が授賞講演の中で注意深く「群淘汰」という言葉を回避したことからも想像されるように(代わりに「集団淘汰」という言葉を耳にした)、群淘汰的説明の妥当性をめぐっては、現在もなお進化生物学の論議の火種を提供しています。*4

とある([ ]内、強調は引用者による)。三中(あるいは辻和希)にも、池田氏は「群淘汰という言葉を知ったかぶりで使っているだけで、理解していません」と言うのであろうか。もちろん私はアマチュアだから、いくら池田氏よりかは進化生物学について詳しいとは言え、専門外のことを書くのは慎重になる。なので、上記引用した三中の書評を読んで「集団淘汰とか、多レベル淘汰とか名称を変える努力をしている」と書いた(ように記憶している)。

種を守る「利他的な遺伝子」

自分のよく知らない分野(たとえば私にとっては経済学)について二者が議論しているとして、どちらの言い分が正しそうなのか判別する簡易的な手段はあるだろうか。私がよくやるのが、自分がよく知っている分野(たとえば私にとっては医学、遺伝学、進化生物学)についての発言を調べてみるということである。もちろん、医学についてトンデモ発言する人が別の分野では正確な発言をすることもありうるので、あくまでも簡易的な手段に過ぎない。しかし、たとえば「エイズはエイズ菌によって起こる」などと自信たっぷりに断言する人が別の分野について何か発言したとしても、その発言の正確性を疑っておくほうが賢い態度だと言えるだろう。

ブログが流行っているため、過去の発言を検証するのが容易になった。そこで、「進化」とか「遺伝」とかいうキーワードでよく検索する。最近発見したのは、これ。


■愛国心の進化(池田信夫 blog)


 近代国家が成功したのは、それが戦争機械として強力だったからである。ローマ帝国や都市国家の軍事力は傭兵だったため、金銭しだいで簡単に寝返り、戦力としては当てにならなかった。それに対して、近代国家では国民を徴兵制度によって大量に動員する。これが成功するには兵士は、金銭的な動機ではなく、国のために命を捨てるという利他的な動機で戦わなければならない。逆にいうと、このような愛国心を作り出すことに成功した国家が戦争に勝ち残るのである。
 こういう利他的な行動を遺伝子レベルで説明するのが、群淘汰(正確にいうと多レベル淘汰)の理論である。通常の進化論では、淘汰圧は個体レベルのみで働くと考えるが、実際には群レベルでも働く。動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるものと考えられる。ただし、こういう遺伝子は、個体レベルでは利己的な遺伝子に勝てないので、それが機能するのは、対外的な競争が激しく、群内の個体の相互依存関係が強い場合である。内輪もめを続けていると、群全体が滅亡してしまうからだ。利他的行動は戦争と共進化するのである。

まずは分かりやすいところから。「動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る『利他的な遺伝子』によるものと考えられる」。えっと、全然違います。この文章だけで、池田信夫氏が現在の進化生物学を理解していないことがよくわかる。母親が自分を犠牲にして子を守る行動は、利己的な遺伝子によるものと考えられる。もちろん、命を捨てて子供を守る行動は利他的な行動だ。個体としては自分の生存率を下げる一方で、他の個体(子)の生存率を上げようとしているのだから。そういう利他的な行動は利己的な遺伝子によって説明できるってことを「利己的な遺伝子」でドーキンスは主張した。

そもそも「個体を犠牲にして種を守る」って何?いまどき種淘汰か。母親は自分と遺伝子を共有する個体を守っているのであって、種や個体群を守ろうとしているのではない。少なくとも通常の進化生物学ではそのように考える。限定された条件下では群淘汰が起こりうるという話はあるが、かような豪快な誤りを犯す人がそういう微妙な話を理解できるとは思えない。少なくとも母親が子を守る行動は普通に利己的な遺伝子で説明できる(というか、利己的な遺伝子の説明として典型的な)話だ。種を守る『利他的な遺伝子』なんぞを持ち出す進化生物学者はいない。

愛国心についても、いったいなんでまた遺伝子レベルで説明をつけたがるのか理解できない。こうした傾向は池田氏だけに見られるわけでもないところを見ると(参考:■愛国心の遺伝子)、何か理由があるのだろうか。よしんば愛国心を遺伝子レベルで説明するとして、群淘汰(多レベル淘汰)などよりも、集団が比較的小さくメンバーが血縁関係にあったころに進化した、集団に対する帰属意識のためとでもするほうがありそうだ。群淘汰が働くにはフリーライダーが利益を得られないような、(私の理解では)かなり厳しい条件が必要であるからだ。いずれにせよ、利己的な遺伝子からして理解がおぼつかないのに、群淘汰による愛国心を説明するのは心もとない。進化生物学の分野でこんなふうだと、他の分野は大丈夫なのか心配になる。池田流「進化生物学」で変なこと言っているように、別の分野についても変なことを言っているのかもしれない。



そのほか気になったところ。


■人類史のなかの定住革命のコメント欄


利他的な行動が遺伝的なものか文化的なものかについては、古くから論争がありますが、たぶん両方というのが妥当な答でしょう。ただ、どっちの比重が大きいかについては、諸説あります。
ほとんどが遺伝によるものだと考えるのが、E.O.ウィルソンに代表される「社会生物学」の立場です。コンラート・ローレンツなどの動物行動学も、攻撃性を抑制することが種の存続にとって重要であることを示しています。本書の著者も、ピグミー・チンパンジーなど類人猿に「公平な分配」が広く見られることを示しています。

最初の段落は何ら問題はない。問題は次の「ほとんどが遺伝によるものだと考えるのが、E.O.ウィルソンに代表される『社会生物学』の立場です」。って、えー、そーなのー?社会生物学者が遺伝的な影響を大目に見積もりがちってことはもしかしたらあるかもしれないが、「利他的な行動はほとんどが遺伝によるものだと考える」ってのは別に社会生物学の立場ではないだろ。「多くの病気は環境要因と遺伝要因とが組み合わさって起こりますが、ほとんどが遺伝要因によるものだと考えるのが『遺伝学』の立場です」ってのと同じくらい阿呆な発言だぞ。