NATROMのブログ

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池田信夫氏からの反論


池田信夫氏は進化生物学を理解していない、という指摘に対して、池田信夫氏からの反論があった。同じパターンのナンセンスな話が繰り返されることになりそうな予感。


■利他的な遺伝子(池田信夫 blog)


これだけ読んでも、彼が自称する「生物学の専門家」ではなく、アマチュアにすぎないことは一目瞭然だ。まず彼は、遺伝子を共有する個体を守る行動を説明したのが「ドーキンスの利己的な遺伝子」だと思い込んでいるようだが、これはドーキンスの理論ではなく、ハミルトンの非常に有名な論文(1964)によって確立された血縁淘汰の理論である。ドーキンス(1976)は、その理論を「利己的な遺伝子」という不正確なキャッチフレーズで普及させただけだ。

ドーキンスが個体レベルの利他行動を遺伝子レベルの利己性によって説明したのは事実だろう。もちろん、血縁淘汰の理論を確立したのはハミルトンである。ドーキンスはハミルトンの理論を援用して「利己的な遺伝子」を書いたに過ぎない。「利己的な遺伝子」にもハミルトンの名前はたくさん出てくる。そんなことはとっくに存じ上げている。後出しで負け惜しみを言っていると疑うのなら、私の日記をハミルトンで検索してみればよろしい。

「利己的」「利他的」という用語が不正確だとして*1、その「利己的」「利他的」という言葉を持ち出したのは池田信夫氏。ドーキンスのキャッチフレーズを持ち出して「種を守る『利他的な遺伝子』」などというトンチンカンな説明がなされていたので、ドーキンスはそんなこと言っていないでしょうと指摘したのだ。それが、池田氏の脳内ではなぜか「NATROMは血縁淘汰がハミルトンの理論であることも知らないらしい」ということに変換されたようだ。



「いまどき種淘汰か」って何のことかね。「種淘汰」なんて概念はないのだが。彼のいおうとしているのは、群淘汰(あるいは集団選択)のことだろう。

「種淘汰」なんて概念はないのですかそうですか。池田氏にとったら、天動説なんて概念もないのであろう。「概念がない」「概念が否定された」を区別しよう。まあ、概念がないでもいいし、否定されたでもいいけれども、とにかく、「種淘汰」と「群淘汰(あるいは集団選択)」とが異なるものであるというのはいいよね?後者については、池田氏が紹介している(たぶん理解はできていない)Sober-Wilsonで扱われている。で、池田氏はどのように書いたか。



動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるものと考えられる。

Sober-Wilsonの本をちゃんと理解している人は、絶対に種を守るなんて書かないと思うぞ。種淘汰なんて概念はなくても、「個体を犠牲にして種を守る」なんて概念はあるのかね。まさしく、「エイズ菌」レベルの間違い。「エイズは細菌によるものだ」と書いてあるのを馬鹿にして「エイズ菌かよ」と指摘したら「エイズ菌なんて概念はない」などと反論された気分。



E.O.ウィルソンによれば、遺伝子を共有する親族の利益をBk、集団全体の利益をBe、血縁度(relatedness)をr、利他的行動のコストをCとすると、

rBk + Be > C

となるとき、利他的行動が起こる。ここでBe=0とおくと、ハミルトンの理論になる。つまり多レベル淘汰理論は、血縁淘汰理論の一般化なのだ。

それでWilsonとSoberは、動物の母親が命を捨てて子供を守る行動を、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるもの、なんて言ったのかな?池田信夫に問う。いったいなんでまた、「集団を守る」でもなく「個体群を守る」でもなく、「種を守る」なんて書いたのか?池田氏こそが、古典的な群淘汰と、現在議論になっている「多レベル淘汰理論」との違いを理解していない証拠に思えるのだが。

追記:2007/4/29

池田信夫先生は、いったいなんでまた、「集団を守る」でもなく「個体群を守る」でもなく、「種を守る」なんて書いたのか?という質問に答えられず、遁走のようである。予感は当たりつつある。池田氏によるコメントより引用。



彼の話がお笑いなのは、「『種淘汰』なんて古い。ドーキンスが正しい」というアマチュアらしい夜郎自大の主張をしていることです。実際は逆で、この知識そのものが古いということを実験の例まであげて説明したのに、これについては何も反論できないで、最初の記事と同じ話を繰り返すだけ。Sober-Wilsonを読んだかのごとく書いている(読んだとは書いてない)が、本当に読んだのなら、ちゃんと反論してみろよ。

「『種淘汰』と『群淘汰(あるいは集団選択)』とは異なるだろ。群淘汰はあってもいいかもしれんが、それにしても『種を守る』ってどういうことよ?いくらなんでも酷くねえか?」とちゃんと反論していますがな。反論できないのは池田氏のほうである。Sober-Wilsonの本に書かれているような多レベル淘汰は新しいが、種淘汰なんて古いのは当然のこと。多レベル淘汰を理解するにはまず、その基礎となるハミルトンの理論を理解しておく必要があるのだが、「種を守る『利他的な遺伝子』」なんて書いちゃう人が理解しているとは思えないというのが元々のエントリーの主旨。Sober-Wilsonを読んだのなら、ちゃんと『(個体群や集団ではなく)種を守る』ような行動や遺伝子があるのか示してみてはどうか。できないから逃げるしかないのをわかってて言っているけど。

「ドーキンスの言説がすべて正しいとする立脚点そのものの脆弱さ」などどブクマコメントしていた人もいたけど、ここではドーキンスがすべて正しいなどと主張している人はいないのだ。ハミルトンやドーキンスが否定した群淘汰とは異なる、もっと微妙な形での新しい群淘汰理論があるのは承知の上。でもね、そういう新しい群淘汰は、かつて否定された群淘汰とは異なるものだ。だから、群淘汰ではなく、集団淘汰とか、多レベル淘汰とか名称を変える努力をしている。そういう努力を、本を一冊か二冊読んでわかった気になったどっかのアマチュアが「を守る『利他的な遺伝子』」などと書いて台無しにしたのを笑っているの。

医師である私が生物学を語ると、『??』なことも多いかもしれない。ただ、『??』なことも多いなどと言いつつ具体的な指摘がなければ、私が間違っているのか、それとも「ケチをつけたいけど能力的に無理なので、専門家を自称してNATROMの発言の信頼性を貶めよう」という意図があるだけなのか区別できないので、適宜指摘してくださるとありがたい。どっかのブログのように、都合の悪いコメントを検閲して載せなかったり、自分の間違いが明らかになってしまうトラックバックを削除したりはしません。



追記:2007/10/18
「池田先生が勘違したか、NATROMの主張をすりかえたのかではないか、説明を求む」という大学生さんのコメント*2に対し、池田先生が長い時間をおいて返事をされた(返事になっていないのであるが)。


このNATROMなる人物は、群淘汰という言葉を知ったかぶりで使っているだけで、理解していません。「集団選択と群淘汰」などと書いているのが、その証拠です。これは両方ともgroup selectionの訳です。*3

私は「集団選択と群淘汰」などとは書いていないので、池田氏が私の主張をすりかえたのかと思ったが、おそらくは私の、


でもね、そういう新しい群淘汰は、かつて否定された群淘汰とは異なるものだ。だから、群淘汰ではなく、集団淘汰とか、多レベル淘汰とか名称を変える努力をしている。そういう努力を、本を一冊か二冊読んでわかった気になったどっかのアマチュアが「種を守る『利他的な遺伝子』」などと書いて台無しにしたのを笑っているの。

という主張を受けてのことだと思われる(それ以外には思い当たる発言はない)。さて、三中信宏(三中が専門家だということには池田氏も納得してくれるであろう)による書評に、


辻さん[今年の生態学会・宮地賞の受賞者の一人である辻和希(富山大・理)]が授賞講演の中で注意深く「群淘汰」という言葉を回避したことからも想像されるように(代わりに「集団淘汰」という言葉を耳にした)、群淘汰的説明の妥当性をめぐっては、現在もなお進化生物学の論議の火種を提供しています。*4

とある([ ]内、強調は引用者による)。三中(あるいは辻和希)にも、池田氏は「群淘汰という言葉を知ったかぶりで使っているだけで、理解していません」と言うのであろうか。もちろん私はアマチュアだから、いくら池田氏よりかは進化生物学について詳しいとは言え、専門外のことを書くのは慎重になる。なので、上記引用した三中の書評を読んで「集団淘汰とか、多レベル淘汰とか名称を変える努力をしている」と書いた(ように記憶している)。