sivad氏によると、1994年ごろには「EPA(Environmental Protection Agency:米国環境保護庁)らがMCSや臨床環境医を否定できなくなった」のだそうで、その根拠として提出されているのが、1994年報告書に挙げられているMillerの報告■White paper: Chemical sensitivity: history and phenomenology., Toxicol Ind Health. 1994 Jul-Oct;10(4-5):253-76.である。Millerによれば、EPAの内部で200人超の職員がシックビルディング症候群に関連した症状を呈し、そのうち十数名がMCSを発症したとのことである。
Miller CS(Claudia S. Miller)は医師で、現在はテキサス大学の教授である。MCS(Multiple chemical sensitivity:多発性化学物質過敏症)の疾患概念に肯定的な研究者の中では比較的ましな部類に入る。この点では、たとえば、ホメオパシーをはじめとする効果の不明確な治療を行い、当局から懲戒処分請求を受けるようなウィリアム・レイ(William Rea)医師*1などとは異なる。
Millerの功績の一つは、化学物質過敏症患者のスクリーニングのための調査票QEESI (Quick Environmental Exposure and Sensitivity Inventory)の開発である。MCSには明確な診断基準がなく、研究者Aの指すMCSと研究者Bの指すMCSが同一である保障がなかった。QEESIは自己申告に依存するため、実際に化学物質に反応する症例と化学物質に反応すると思い込んでいるだけの症例とを区別できないという欠点はある。一方、一定以上の得点を得た患者さんは真の原因はともかくとしてなんらかの健康問題を抱えてる可能性が高いわけで、そうした患者さんを拾い上げるのには役立つ*2。
また、MillerはMCSとされる患者さんの奇妙に見える反応への説明として、ユニークなモデルを提唱した(参考:■反証が事実上不可能な方向に進んでいるように見える: 忘却からの帰還)。症状を引き起こすとされる化学物質に暴露しても症状を引き起こさなかったり、むしろそうした化学物質を積極的に摂取したりする患者さんが一部にいる。こうした現象はMillerによれば暴露後の二極性の反応の重なり合いとして説明される(その化学物質は実際には症状を引き起こさない、と考えてもそのような現象は説明できると私は思うが)。このモデルは当時はもちろん、現在でも証明されていない。
私の把握している範囲内ではMillerが臨床環境医を名乗ったことはない。近年ではMCSという名称の代わりに新たにTILT(Toxicant Induced Loss of Tolerance:毒物誘因耐性消失)という用語を提唱している。Millerの意図はわからないが、もし私が研究者だったとしたら、MCSという用語はできるだけ避ける。なぜなら、既にMCSという用語は臨床環境医による怪しげな主張と強く結びついているからである。
さて、EPA職員がMCSを発症したと主張しているのはMillerである。EPAではない。sivad氏は「引用されている」と書いているが、私の把握している範囲内では1994年報告書にMiller報告は引用されていない。EPAは、"For Assistance and Additional Information"としてMiller報告を参考文献の一つに挙げているだけである。なお、EPAが同じく参考文献の一つに挙げた"Terr, A. "Clinical Ecology". Annals of Internal Medicine. III(2): 168-178."は、■臨床環境医学は専門家にも注目されていた。悪い意味で。で紹介したアメリカ内科学会のposition paperである*3。「そこにいたる経緯を知りたければ、当該文書にある参考文献を読むべきなんじゃないですか」と仰ったsivad氏は、もちろんこの文献もお読みであり、今後のエントリーで言及してくださるのであろう。
要するに、Miller報告はMCSに関するさまざまな意見があることを紹介する文献の一つに過ぎない。sivad氏は、Miller報告内の主張とEPAの主張を明確に区別していただきたい。sivad氏の言うように、「EPA内部でMCSが発症していた」ことが事実であり、EPAもそう考えていたとしたら、1994年報告書には間に合わずとも、後にEPAをはじめとした公的機関がなんらかの総括なり声明なりを公開していることが期待できる。しかし、私の知る範囲内ではEPA内でのMCS発症についてはMillerとそのグループによって言及されているのみである。
ついでに言えば、仮にEPAがMiller報告の内容を全面的に支持していたとしても、「EPAらが臨床環境医を否定できなくなった」とは必ずしも言えない。なぜなら「臨床環境医学はトンデモでどうしようもなくダメダメではあるが、それはそれとしてMCSという病態はあるのだ」という立場もありうるからである。とくに1994年の段階では。Miller報告はMCSの疾患概念には肯定的であるが、臨床環境医学に対してはよくて中立的で、私には臨床環境医たちから距離を置こうとしていることが読み取れる*4。「EPAらが臨床環境医を否定できなくなった」と主張するにはMiller報告だけでは不十分である。
なお、1994年の段階で、MCSが研究に値する、あるいは警戒されるにしかるべき疾患であったというのは正しい。予算もついて研究もなされた。別に「わかるまで放置」されたり、「機序がわからないなら心因性にしてしまえばOK」とされたわけではない。しかし、1994年から20年以上が経ったが、MCSの疾患概念、診断基準、治療法などにはいまだ定まった見解はない。MCSとされている患者さんの症状誘発の原因が微量の化学物質の暴露ではなかったとしたら、真の原因や有効な治療法についての研究の遅れによって被った患者さんたちの被害は甚大である。患者さんの苦痛は本当はどうでもよく、単に化学物質の害を指摘したいだけの論者でもない限り、こうした被害についても考慮するであろう。
sivad氏は「MCSの本物の性質は、米国と英国とでそれぞれ独立した科学者らによる公式な報告書において認識されて」いるという2000年のイギリス・アレルギー環境栄養医学協会(BSAENM)の報告を挙げている。BSAENMなる組織の信頼性については、近日中に書く予定である。
*1:■治療にホメオパシーを用いる化学物質過敏症の権威 、■メモ「排気ガスを希釈して電磁気的印影しか残っていない液で治療するWilliam Rea, MD」: 忘却からの帰還、■William Rea医師への懲戒請求 2007-09-21 - 食品安全情報blog
*2:"Apart from the debate over causality, chemical intolerance holds particular relevance for primary care clinicians.", Katerndahl DA et al., Ann Fam Med. 2012 Jul-Aug;10(4):357-65.
*3:■Clinical ecology. American College of Physicians. - PubMed - NCBI
*4:たとえば、"The New Jersey Report on chemical sensitivity suggested that legitimate professional concerns over unorthodox diagnostic and treatment approaches employed by the clinical ecologists be separated carefully from the question "Does chemical sensitivity exist as a clinical entity?""