NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

医療の値段

医師はいろんな職業の人と接する機会があるけれども、どうしても「医師と患者」という関係に縛られてしまう。ネットだと、患者さんの本音が聞けるので助かる。たとえば、「入院したときに、お金を用意するために入院費用を聞いたところ、『6万円くらいですかね』とのことだったが、実際には10万円ちょっとかかった」という体験談。正直言うと、「まあそれくらいのズレはあるだろう、普通」と最初は思ったけど、よく考えれば普通じゃない。普通の取引であれば、あらかじめ物の値段は決まっており、価格に見合うものかどうかを判断してから購入する。Amazonで「6万円くらい」の商品を購入したところ、あとで10万円を請求されたら、そら酷いと思う。

医療の値段は前もっていくらかかるかわからない。だけど(だからこそ)前もって説明が必要

なぜ私は、Amazonでは「6万円くらい」が実際には10万円だったらトンデモナイと思うくせに、入院費だとそうは思わなかったのか。なぜなら、外来診療ならともかく、入院に要する値段は、たいていは前もってキッチリとは決まらないからだ。病気の経過は千差万別である。たとえば、ちょっと発熱して、念のために退院を1日2日伸ばしただけで、入院費が数万円違ってくることもある。合併症に対して検査、治療を行っても費用はかさむ。私の聞いた話では、肝移植を自費で行うと最低で600万円、最高で3000万円ぐらいかかるとのこと。最高の3000万円については、「これまでそういうケースがあった」というだけで、別に3000万円が上限というわけではない。可能性を言うなら、重篤な合併症を起こしてICUで延々と管理していれば、費用に上限はない。

とは言え、通常の医療については、おおよそでよいのであれば、いくらぐらいかかるのかを前もって説明できるし、説明するべきである。付け加えて、予想通りの値段にならないこともある点についても、説明する必要がある。想像するに、「6万円くらいが実際には10万円」というのは、普通ならおおよそ6万円で済むところが、何らかの理由で費用がかさんだのであろう。もしかしたら、入院費用が予想通りにならない可能性についての説明はなされたものの、説明が不十分だったのかもしれない。医療機関側は入院費用が予想通りにならないのは当然だと思っているが、患者側は必ずしもそうではない。そのことを踏まえた上で、十分な説明が必要だろう。できれば、医師ではなく、事務の人が説明してくれればありがたい。

勤務医は医療の値段をあまり気にしなかった

そもそも、勤務医は、医療の値段をあまり気にしない傾向にあった。病院の収入が直接本人の給与に反映するわけではないこともあるが、医療の値段が軽視されがちな「文化」があるせいではないか。私が研修したころの大学病院では、下々の医師は経営のことはあまり考えなくてよかった。患者さんのためなら、高い薬でもバンバン使っていた。たまに、「お金儲け目的のために医師は不必要な薬をバンバン使う」と誤解している人もいるが、少なくとも保険診療の範囲内では、高い薬を使いすぎると、医療機関の損になる。

保険診療だと、医療費の7割以上を国や組合などの保険者が支払う。高い薬をバンバン使っていると、保険者がケチつけて支払ってくれない。これを「切られる」とか「削られる」と言う。保険診療でもっともうまく儲けるためには、保険者に「削られ」ないように、あまりに高額の医療は控える必要がある。総医療費を抑制するという観点からも一定の合理性はあるのだが、患者さんにとっての最適の医療とずれてしまうことがある。そんなとき、昔の大学病院では、「削られる」のを覚悟で高価な医療を行っていた。少なくとも私のところではそうだった。経営よりも患者の命を助けるのが優先という「文化」があった。「職人」がいい仕事をするために、いい素材の値段を気にしないイメージに近い*1。と言えば聞こえはいいけど、本当は誉められたことではない。

最近では、勤務医も医療の値段を気にせざるを得ない

保険で削られたとしても、医療費は誰かが負担しなければならないわけで、病院とか教室とかが負担していた。これは別のことにも使えたはずのお金であり、「患者さんのため」だからと無制限に許されるものじゃない。最近では病院の経営も厳しくなって、保険で削られるような医療はしにくくなった。試す気はないけど、大学病院であっても、保険で削られるような医療をバンバン行っていたら上から警告されると思う。どうしても患者さんにとって必要な医療だったら、知らないフリしてやっちゃうけど、少なくとも警告されたときに、「いやでも、保険で削られようともこれは必要でしょ。いくらなんでも」と反論できるだけの根拠は用意する。昔と比較すれば格段にハードルは高くなっている。ハードルが高くなりすぎても弊害はある。どこかでバランスを取らないといけない。難しいけど。


*1:いわば、昔の大学病院や大きな公的病院は、職人が素材の値段を気にせずに自由に腕をふるうことができる場だった。開業すれば、素材の値段を気にしないとやっていけない。個人としての収入の期待値は開業したほうが高いにも関わらず、勤務医を続ける動機の一つになっていたのだろう。