NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

「死ぬこともある」と説明すべきか

昨今、医師は十分な説明を行うことを期待されているが、一方でネガティブな情報については説明して欲しくないという意見もある。「福岡県医報」という雑誌に、「ジャーナリストからの風」というコラムがある。医療関係の取材を行ったマスコミ関係者が、医療従事者向けに書いたものだ。平成20年8月号、No.1386より、NHK福岡放送局の椿直人記者による「『医療は不確実』だとしても…」より引用する。






「ジャーナリストからの風」
3年前、当時4歳だった次男が、急性腸炎で緊急入院した。出張中だった私は、帰宅後すぐに見舞いに駆けつけ、担当医師の説明を聞いた。「点滴で数値を下げようとしているが、なかなか下がらない。最悪の場合、腹膜炎を起こして死亡することもある」。医師の説明に冷静さを失いそうになりながらも、原因を尋ねたところ、「原因よりも治療を優先する」とのことで、ますます不安が募ったのを覚えている。当時、面会時間が終わりに近づくと、しくしくと泣き出していた息子も、今では元気な小学2年生。担当医師には本当に感謝しているが、「原因より治療を優先する」のは医療の常識だったとしても、「死亡することもある」という説明は、万が一、死亡した場合でも、「事前に説明しておいたのだから、お父さんも分かっていたでしょ」と言えるよう、布石を打たれたのだと思っている。
またしてもお騒がせな次男が今年1月、学校で転倒して頭を強打し、かなり大きなたんこぶを作った。診察の結果、しばらく様子を見ることになり、その日のうちに再登校したのだが、給食の後、嘔吐してしまった。それを聞いた私は、「担当医師は、なぜCTを撮ってくれなかったのか」というただ一点に不安が集中してしまい、インターネットの迷宮に入り込んだ。ネット上では、子どもが頭を強打した時にCTを撮るべきか否かについて、大論争とも言うべきやりとりが展開されている。読めば読むほど心配になる内容ばかり。後日、ある医師から「CTを撮っても、その後急変したら、意味がない」という単純明快な回答を頂いたが、私をはじめ、多くの患者や家族のレベルは、この程度だと思う。
「医療は不確実だ」という。「人はちょっとしたことで死んでしまう」とも。先日、医師会に招いて頂いた勉強会の中で、最も印象に残った言葉だ。確かに、医療の高度化や、死と遭遇する機会の減少などによって、医師への期待は高くなりすぎているのかも知れない。


患者の家族の立場から、感じたことを素直に書かれたのだろう。「死亡することもある」という説明に冷静さを失いそうになる患者および家族がいることは十分理解できる。CTを撮らなかったことについての説明不足もあったかもしれない。この後、教員不足やモンスターペアレントの問題や教育界も同様に教師への期待が高くなりすぎていることを述べた後、



医師の立場は、その専門性や責任の重さにおいて、教師とは似て非なるものだと思う。しかし、私が尊敬できると思えた教師たちは「教育は不確実だ」とは言わなかった。「教育は子どもたちに影響を与えることができる」と信じていたからだと思う。
医師は、患者を治すことができると信じていないのだろうか。


「教育は不確実だ」と教師が言わないのは、教師が「教育は子どもたちに影響を与えることができる」と信じていたからではないと思う。生徒が志望校に合格しなかったら「不合格になることを説明しなかった。説明義務違反だ」「別の教え方をしていれば合格したはずだ」と保護者に訴えられたり、マスコミから批判されたりするようになれば、「合格しないこともある」「教育は不確実だ」と教師たちは言いはじめるだろう。医師も、「医療は患者に影響を与えることができる」とは信じているが、「患者を100%治すことはできる」とは信じていない。教師も、生徒の100%を志望の進路へ行かせることができるとは信じていないだろう。



何もかも承知の上で、あえて言いたいのだが、息子の担当医師には「死ぬこともある」とは言ってほしくなかったし、CTを撮る必要性の有無についてもきちんと説明してほしかった。「医療は不確実だ」としても、そうは言ってほしくないと思う一方で、説明すること自体はあきらめないでほしいと思う。
患者と真摯に向き合う医師の姿を見せ続けることが、ただちに、訴訟リスクなどの問題を解決に導くとは思えないが、「医療は不確実だ」と公言するより、医師への理解は少しずつ広がるのではないかと考えるのは甘すぎるだろうか。


「死ぬこともある」とは言ってほしくなかった。その気持ちは理解できるが、では万が一、患者が死亡したときに、医師を非難しないと言い切れるのか?「患者と真摯に向き合」っていたからと、説明不足を罵らないか?無論、真摯に尽くせばたとえ結果が悪くても患者および家族の多くは理解してくれるはずと医療者も信じている。しかし、すべてがそうとは言えない。標準的な医療を行い、墓前で土下座し、月命日の前後の休日に墓参りをしてもなお、「この病院でなければ、亡くさずにすんだ命。医師の処置に問題がないならなぜ亡くなったのか。医師の責任を追及する」などと言われることもある。あるいは、急変した患者の搬送先を懸命に探しているのにも関わらず、小声で落ち着いた感じで話しているからと、「必死さが伝わって来なかった」と言われ、訴えられることもある。

遺族がそうした気持ちになるのは仕方がなかろう。では、第三者であるはずのマスコミはどうか。医療が不確実であることを十分理解した上で、公平な報道を行っていれば、医師が自ら「医療は不確実だ」と公言する必要などなかったのではないか。多少なりとも医療現場の取材を行い、医師会に勉強会に招かれたこともある「ジャーナリスト」ですら、医師向けの雑誌に「死ぬこともある」とは言ってほしくなかったと書くのだ。第三者たるジャーナリストの目線ではなく、完全に家族の目線である。

なお、この翌月号(平成20年9月号、No.1387)の「福岡県医報」の「ジャーナリストからの風」は、FBS福岡放送報道部の坂本真理記者の「気力・体力の現場で女性医師の活用を」であった。



「お産には危険がつきもので亡くなる人をゼロにすることはできない」
そろそろ医師側ははっきり言ってもいいのではないか。お産を迎える妊婦に不安をあたえるから言いたくないと多くの医師は話すが事実を共有することは重要だ。産科から医師がいなくなれば結局多くの妊婦と赤ちゃんが危険にさらされる。日本の周産期医療は世界のトップレベルなのだから「救えない命がある」と言うことは医師として恥ずかしいことではない。「安全神話」は作った医師たちの手で壊すべきだ。


坂本真理記者が先月号の「ジャーナリストからの風」を読んだ上で「死ぬこともある」とはっきり言えと書いたのなら、なかなかたいしたものだと思う。