肝臓癌の発生率が西日本で高いことについて、主因はHCV(C型肝炎ウイルス)の感染率が西日本で高いことにある。じゃあ、HCVの感染率はなぜ西日本で高いのか。もともと高かったのであろうが、詳細は不明である。感染率に地域差があるウイルスは他にも知られている。たとえば、HTLV-I (human T-lymphotropic virus type-I) というウイルスは、やはり西日本で感染率が高い。これも、もともと高かったとしか言い様がないが、なぜもともと高かったかについては過去の民族の移動によって説明される。というか、過去の民族の移動をHTLV-I の感染率で推定したりする。たとえば、こんな具合(ATLウイルスはHTLV-I に同じ)。
■二重構造モデルの支持説(日本人の源流を探して)
ウィルス学の日沼頼夫らの研究によると、ATLウィルスの保有者はアイヌ系や南部九州、奄美、沖縄地方の人々に比較的多く、その他の地方すなわち本州地域は少ない。
日沼は日本人をATL保有者群と非保有者群とに分け、前者が縄文系、後者が渡来系の
集団に相当し、渡来系が本州で勢力を広げる一方、縄文系は北海道や九州南部から南西諸島など周辺に、追いやられたのではないかと考えている。
と埴原は紹介している。これも二重構造モデルを裏付けるというわけである。
大雑把に言って、HTLV-I の感染率が似通った集団同士は、起源も近いだろうというわけ。B型肝炎ウイルスについても似たようなことは行われている( ■B型肝炎ウイルスの遺伝子型(肝炎ウイルス十話) )。HCVについても同様な研究は原理的に可能であるだろうが、私の調べた範囲内ではなされていない。おそらくは、HCVの発見が遅かったこと、医原性などの他の要因による感染で撹乱されていることが原因なのだろうと思われる。現在ではヒトゲノムの多くの遺伝マーカーが使用可能なので、わざわざウイルスを使う必要はないのだろう。それはそれとして、HCVの分布の原因について学術的な興味があり調べてみたのだが、HCVの発見自体は1990年のちょい前なので、HCV感染率についてはそれ以前のデータはほとんどない。日本の肝癌の原因の約8割がHCVとされているが、少なくとも肝臓癌は昔から西日本に多かった。1978〜82年の段階でこんな感じ。
肝癌死亡率の都道府県別分布図(1978〜82年)*1 |
西高東低であるのがわかるだろう。「1970年代にすでにアフラトキシン汚染米が西日本に流通していたことを完全に否定することはできないところに今回の問題の不気味な闇が広がっている」というネタを考えたがやめた。山梨県で肝疾患が多いのは有名な話であり、日本住血吸虫が原因である。日本住血吸虫 and 肝癌で、日本の医学論文を検索すると、「山梨医学」が多く引っかかってくる。以下に引用する論文*2も山梨大学医学部第1外科の先生による。
現在、日本住血吸虫症は日本国内では撲滅されたが、かつての流行地である山梨県の甲府盆地、福岡、佐賀県にまたがる筑後川の流域、広島県の片山地方では、今日でも肝硬変や肝細胞癌の死亡率が高く、古くから日本住血吸虫患者に肝細胞癌や大腸、直腸癌の発生が多いことが認識されていた。疫学的検討でも、日本住血吸虫の浸淫地域では男性の肝癌標準死亡率が対照群と比較して188.6%と高く、肝癌の検体の38.6〜44.0%に日本住血吸虫卵が検出されていた。このため、日本住血吸虫が肝細胞癌発生の要因の一つではないかと主張されていた。
(中略)
また、慢性日本住血吸虫に対する注射治療を受けた例が多く、現在に比較すれば不衛生な頻回のスチブナールの静脈注射が、結果的にC型肝炎ウイルス感染の機会を多くしたものと推定される。このことはHCV遺伝子を用いた分子進化学的解析、分子時計解析によっても裏づけられている。このように日本住血吸虫そのものが肝細胞癌の原因や発癌促進因子となる可能性は否定できないものの、慢性日本住血吸虫症患者においても、併存するウイルス肝炎(特にC型肝炎)により肝硬変、肝細胞癌の連鎖を生じた可能性が強いものと推定される。
医原性の感染以外に、刺青や覚せい剤の回し打ちもHCV感染率に影響を与える。過去の民族移動の推定にHCVを使用するのは困難そうである。医原性の感染は上記した日本住血吸虫に対する治療のほか、輸血や予防接種が考えられる。「GHQの天然痘予防接種が西日本周辺で重点的に行われた」という主張もあり*3、調べてみたが裏はとれなかった。もしかしたらHCV感染率の西日本優位の原因の一つにぐらいはなっているかもしれないが、それだけでは説明できないだろうと思う。肝癌ではなく、肝硬変の死亡に関してだが、戦前の記録を発見した。古い図書館もこういうときに役に立つ。
1935年における都道府県別肝硬変症死亡率*4 |
HCV感染=肝硬変ではないし、過去の統計がどれくらい信頼できるかは分からないが、昔から肝疾患が西高東低である傾向はあった。ちなみに、1998年の段階で、日本における肝硬変の成因別頻度は、C型肝炎ウイルス感染65.0%、B型12.0%、アルコール多飲13.0%となっている*5。HCVの感染の分布は、HTLV-I と同じくもともと西日本に多かったのが、医原性その他のさまざまな要因で修飾されたと考えるのが妥当だ。ちなみに1970年代からの肝癌死亡者の増加は、HCV感染者が肝癌の好発年齢に達したことによる。日本では若年者ほどHCV感染率が低く、そろそろ肝癌は減少傾向にある。当然ながら、肝癌の原因に占める肝炎ウイルスの割合も低下傾向にある。
*1:肝細胞癌 早期発見のために、小幡裕・水谷龍二編著、中外医学社、1986年より引用
*2:松田政徳, 藤井秀樹、特集 本邦における非B非C肝癌の実態 日本住血吸虫症、肝胆膵, 54(3) : 361-369, 2007.
*3:■話題の肝癌について3時間程脊髄調査した(ドッフの喫茶店 別館)経由、■「検証C型肝炎」:感染拡大を招いたといわれるGHQの天然痘予防接種「種痘」を検証 [FNN]
*4:肝臓病、高橋忠雄・織田敏次、医学書院、1973年より引用
*5:朝倉内科学の日本における肝硬変の成因別頻度の図(引用元は岡上武ら、わが国の肝硬変の現状.肝硬変の成因別実態1998、中外医学社)より