ニセ科学批判批判をされているmercaさんの新しいエントリー。
■ニセ科学批判の意味空間(社会学玄論)*1
ニセ科学は、やはり科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提に支えられているような気がする。そして、ニセ科学批判も、科学の立場からなされるのならば、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提をもつことになる。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という信念を共有する者どうしの熱い議論である。ところで、科学以外の立場から、ニセ科学を批判する視座はあまり見かけたことがない。
ニセ科学批判者たちが、なぜそんなに熱くニセ科学やニセ科学批判批判を批判するのか、その理由が釈然としないもどかしさを感じる。科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者には不思議にうつるのである。科学が唯一絶対的な正しい真理と堂々と思っているから熱く議論するのであると正直に言えばいいと思う。ポストモダンが生み出した懐疑論者やニヒリストたちの前で、科学は文化を越えた唯一絶対的な真理であると単純にいうのは、恥ずかしいと思っているのかと思う。
ニセ科学が、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の(そして誤った)前提に支えられていることには同意する。ニセ科学の提唱者が、科学を自称したり、あるいは科学と誤認されやすい提示を行ったりするのは、世間一般の科学に対する信頼を利用しているであろう。もし科学が信頼されていないのなら、科学を自称するメリットはない。では、ニセ科学批判は、科学が唯一の真理であるという前提に立っているのだろうか?まさか、そんなことはない。別に科学が真理だとは思っていなくても、科学でないのに科学だと自称する主張をニセ科学だと批判することは可能だ。(それとも、「ニセ科学批判は、ニセ社会学に立脚している」という主張は、社会学が唯一の真理と思っていないとできないのか?)
私は創造科学は疑似科学であると批判を行っているが、同時に■科学主義は、疑似科学と同じぐらい有害だ、において、「進化論は絶対に正しい」と主張しているわけではないことを強調した。問題は、宗教的な主張を科学と自称する、もしくは科学に見せかけることであって、宗教的な主張そのものではない。進化論は科学の範囲内において正しいのであって、宗教的に進化論を受け入れたくない人は受け入れなくてもよい。かのページにおいて、「カーゴ・カルト・サイエンス」などのニセ科学を批判した物理学者であるファインマンの言葉を引用した。
現在科学的知識と呼ばれているものは、実はさまざまな度合の確かさをもった概念の集大成なのです。なかにはたいへん不確かなものもあり、ほとんど確かなものもあるが、絶対に確かなものは一つもありません。(科学は不確かだ!、ファインマン著、岩波書店、P36)
他の多くのニセ科学批判者も同様な立場をとっている*2。だいたい、『「(科学を絶対視する)疑似科学批判をする論客たち」という言葉で誰を指しているのか、実名を挙げて頂けませんか』*3と、きくちさん@大阪大学から質問され、結局具体的な実名をmercaさんは挙げることができず、『ニセ科学批判者が「科学を絶対視する」という命題は間違い』*4であることをお認めになったはずでは。何自分だけ「科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者」なんて高みにいるつもりになっているの?なお、mercaさんは
物語を物語として受け取り、野暮なつっこみをしないのが、私の信条です。ちなみに、私は進化論も物語として受け取っています。そういう意味では、私の中では、神による創造論と進化論は同列です。*5
とも言った。mercaさんは、科学についてあまり知らないくせにメタ議論に口を出したがる知ったかぶりか、でなければ、「科学だけが正しいとは限らない」どころか「科学的に否定された仮説も証明された仮説も同列である」と考える極端な相対主義者なのだろう。mercaさんに、地動説と天動説についてどう思うか尋ねてみたいものだ。知ったかぶりでなければ、地動説と天動説も同列だと答えてくれるだろう。
ニセ科学批判批判も、さまざまな角度から可能であろう*6。しかし、批判者は、自然科学や科学哲学、個々のニセ科学の事例について、最低限の知識を持っておいたほうがよいと思う。でないと、お気に入りのトンデモ説批判に対して反論したいが知識がないため、メタ議論に逃げて的外れな妄言を吐いているようにしか見えない。