NATROMのブログ

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科学と宗教は共存できるか

id:good2ndさんという方が、宗教と科学が共存しうるかについて疑問を呈しておられた(■神の存在について(児童小銃)経由)。


■穏健な宗教(good2ndの日記)。


ちょっと前の話題ですが、ニセ科学がらみで「穏健な宗教と科学は共存できる」というような言い方がされてました。でその、「科学と共存できる穏健な宗教」ってどんなんだろう、というのがどうもよくわからない。「穏健」というのが、単に狂信的でないとか暴力的でないとか反社会的でない、というのであれば、まあ日本にある大抵の宗教は穏健ということになるんでしょうが、「科学と共存」というのがどうも。科学者の人とか信者の人とかは結構はっきりした考えがあったりするんでしょうかね。よくわからないので、科学も宗教もろくに知らないなりに考えてみました。


私自身は無宗教であるけれども、宗教と科学を両立させうることは別に不思議には思わない。ある特定の宗教を信仰している科学者だって少なからずいるし、大多数の科学者は宗教に対して寛容である。ただ、「水からの伝言」のようなニセ科学と(穏健な)宗教の区別がつきにくいせいか、good2ndさんのような疑問が生じるのは理解できる。



さて、素人考えからすると、宗教と科学に折合いをつけるには、おおざっぱに2つの方向があって、

 1. 宗教はファンタジーであって、またそれに基づく儀礼や思想の集りであると考える。神や霊魂なんて全然まるっきり実在しないんだけど、そういう「お話」だから別にかまわない。
 2. 神や霊魂は実在するけど、科学とは関係ない。宗教は科学によって事実だとかお伽話だとか言われるような筋合いのものではない。
というような感じなんじゃないかと。(中略)

さらに 2 番目のほうはもっとよくわからない。というかまず、なんだかごまかしのように見える。水は言葉を理解したりしない、ということは「ほぼ断言していい」のに、神や霊魂は実在しない、ということは「ほぼ断言」できないんでしょうか。してもよさそうなもんだけどなぁ。この間にそんな大きな違いがあるんでしょうかね?うーむ。


想定されている神や霊魂の性質にもよるが、「水は言葉を理解したりしない」と「神や霊魂は実在しない」の間には大きな違いが存在する。前者は検証可能であるのに対し、後者は不可能である。基本的に実証不可能なものには科学はタッチしない。「感謝の言葉を理解して水は結晶の形を変える」という主張に対してなら証拠を要求するし、十分な証拠が提示されない限り切って捨ててよい*1。一方、神や霊魂については、通常は実証不可能である。ただし、「病気の原因は悪い霊魂のせいであり、除霊で病気が治る」といった主張であれば検証可能である。水からの伝言と同じく、この主張は間違っているとほぼ断言してもよい。このような主張を行なう宗教は菊池誠のいう「穏健な宗教」ではないと私は思う。

カール・セーガンは、ニセ科学に対して精力的な批判を行なった科学者の一人であり、同時に宗教に対して寛容でもあった。セーガンの本から引用して終わる。


■カール・セーガン 科学と悪霊を語る


私はこれまで宗教指導者たちと神学的な議論をしてきたが、そのなかでしばしば尋ねたことがある。それは、もしも中核となる教義が科学によって反証されたとしたらどうするか、ということだ。この質問を現在の第十四世ダライ・ラマに投げかけたとき、彼はためらうことなく、保守的な宗派や根本主義の指導者が誰も言わなかったようなことを言った。ダライ・ラマは「そうなれば、チベット仏教は変わらなければならないでしょう」と言ったのだ。「生まれ変わりのような(どの例にしようかと迷ったが)、真に中核となる教義でもですか?」と私は尋ねた。
「そうです」と、ダライ・ラマ。
「しかし」と、彼は目をキラリとさせながらつけ加えた。「生まれ変わりを反証するのはむずかしいでしょうね」
ダライ・ラマの言う通りである。つまり、反証しようのない宗教上の教義に関しては、科学の進歩を懸念する必要はないのだ。「宇宙の創造者」という、多くの信仰に共通する大いなる概念はそんな教義の一つだろう。これは、正しいと証明することも、まちがっているとして捨て去るのもむずかしい概念である。(P281)


*1:「物理的に影響を与えることはないけれども水は言葉を理解するのです」という主張は実証不可能である。このような主張は科学の対象外であり、科学は否定も肯定もできない。このような主張に留まっていれば、「水からの伝言」は、少なくともニセ科学だという批判はされなかっただろう。