NATROMのブログ

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ワトソンの書いたDNAの本


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■DNA J.D.ワトソン (著), 青木薫(翻訳)

ワトソンとはもちろん、DNAの二重らせん構造を発見したジェームス・ワトソンのこと。しかも、青木薫の訳であったので無条件で買っておいたのを、やっと今頃読了した。原著は2003年。献辞は「フランシス・クリックに」とあった。内容は、遺伝学のはじまりから、DNAの構造発見、コドンの暗号解析、遺伝子組換え技術等々の説明がなされる。このあたりまでは、物語をからめて読み物として十分に面白いが、基本的には教科書にも書かれているような内容の解説である。

第5章「DNAと金と薬」あたりから、自然科学から経済・政治の話題にシフトしてくる。ご存知の通り、今日、バイオテクノロジーはビックビジネスである。分子生物学を応用した薬の価値はそれこそ何億ドルとかいう単位で評価され、当然のようにそこには企業間の競争が生じる。また、特にヒトの遺伝子を操作するときには倫理的な問題が生じるし、遺伝子組換え作物の是非については現実の安全性以外の政治的・経済的な思惑で反対運動が起こる。本書には、こうした興味深い話がたくさん出てくる。ただし、ワトソンの立ち位置に気を付ける必要があるだろう。

ワトソンはバイオテクノロジーの応用についてきわめて楽観的である。楽観的過ぎると言ってもよい。…憶測に振り回され遺伝子組換え食品の恩恵を放棄するのは犯罪的だ。病気を減らせるのだから遺伝病のスクリーニングは明らかに社会的に善だ。犯罪者を特定するためのデータベースに、すべての人がDNAサンプルを提供すべきだ。HIVの蔓延を防ぐには安全なセックスを勧めるだけでは不十分であり、生殖細胞を操作してHIV耐性のヒトをつくることを考慮すべきだ…。等々。ワトソンは知識を得ることの利点を信じて疑わない。


知識は、たとえ私たちを不安にさせるようなものでも、無知よりはずっといい。無知が与えてくれる幸福感はいっときのものでしかないのだ。ところが政治的な懸念のせいで、人々は、無知と、それが与えてくれる見せかけの安心とを選ぶことになりがちだ。(P459)

上記引用は、皮膚の色や知的能力に関する遺伝学が研究者によって避けられている現状を憂いて述べられたものであるが、出生前診断や遺伝子組換え作物やHIV耐性ヒトにもついてもワトソンは同じことを言うだろう。ワトソンは、DNAの構造の発見者であると同時に、ヒトゲノムプロジェクトの初代のリーダーである。知識を得ることに対する強い信念がなければ、かようなプロジェクトは進まないのだろうか。私も科学は大好きだし、知識を得ることは基本的に良いことだと信じているが、それでもここまで楽観的にはなれない。科学技術の進歩を警戒する人たちの気持ちもわかるし、そういった人たちへの配慮と説明なしでは、結局のところ科学の進歩はありえないと思う。