NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

「水からの伝言」をめぐる科学コミュニケーション

菊池誠さんのブログで、「水からの伝言」を題材に、科学コミュニケーションについて議論がおこっている。「水からの伝言」とは、水に「ありがとう」などの良い言葉をかけると結晶がきれいなるという奴だ。そこから派生して、人に良い言葉をかけると病気が治るという主張がなされることもある。詳しくは、■水からの伝言(5): 結晶についての簡単なまとめ (kikulog)を参照のこと。科学的には根拠のない、トンデモ話であるのだが、教育関係者が信じて道徳の時間に教えられたりすることが問題になっている。

さて、論点は、「水からの伝言」に科学的根拠があるかどうか、教育の場に持ち込んでよいかどうかではない。議論の参加者はその点については概ね合意できている。論点は、どのような方法で批判するのが適切かというものである。詳しくは、エントリーとコメント欄を参照のこと。

■水伝:mixiに書いたこと(kikulog)*1
■科学とコミュニケーションの問題 (kikulog)
■水伝: 「mixiに書いたこと」へのご意見はこちらに(kikulog)
■コミュニケーションの問題と情報量の爆発について(kikulog)

コメント欄は膨大で議論も細部にわたるが、たとえばこんな感じ。議論の参加者の一人である伊庭さんのコメント


A)「ただの水が文字も音声も理解できるなんておかしい」
B)「無生物は言葉を理解しない」
どちらがより自明かというと,私はA)だと思います.
A)の論拠を相対的に議論の余地のあるB)とすることの必然性が
よくわからないのです.
「科学」と「知識の集積」の間にはっきりとした線は引けないかも
しれませんが,その違いは案外このあたりにあるのかもしれません.
狭義の科学の法則による説明では,一般化すること(たとえば熱力学
の法則との関連をつけることで)段違いに説得力が増します.
B)よりA)にむしろ自明さを感じるというのが一般的かどうか
わからないので,それを認めた上のことですが,B→Aの議論に
ちょっとひっかかりを感じるのは,同程度の常識,自明さに過ぎない
のに,一般化して「科学」という言葉を持ち出すことで見かけの
説得力が増えているようにみえることです.ニセ科学批判の場合には,
そういうことには禁欲的になるべきだと思います.

こうした指摘に対して、菊池さんは、「科学的言説としてどうかということとは別に、Aを認めさせるための説明として、Bと言っている。ちょっと視点を変えるだけで、納得してくれる人が何割かでもいればいい」といった趣旨のコメントをしている。むろん、B)「無生物は言葉を理解しない」という命題を自明とする人ばかりではない。「これまでの経験の蓄積は、無生物の大きな反応しかとらえていなかったのでそうみえただけだった」という想定される反論には、「その反論は論理としてはアリで、そういう反論する人には別のストーリーが必要」と菊池さんは述べている。


ひとつですべてを解決できる万能の言葉はないので、いろんなレベルでいろんなことを言うしかないです。 
しかし、どんなストーリーにしようと、最終的には「それはあなたが科学万能主義にとらわれているからで、科学では理解できないことはたくさんあるのだ。なんと言われようと私は信じる」というたぐいの捨てぜりふ(?)で終わっちゃう人がかなりの割合で出てしまうだろうとは思うのです。こちらは万能の言明なんです。これに対応するこちら側の万能の言明は「なんと言われようと、間違っているものは間違っている」ですが、これは使えない(^^;。 
そういう意味では、僕は"すべての人を説得する"ことは最初から放棄しています。
さまざまなレベルでの理屈を積み重ねて、そのどこかで「腑に落ちてくれる」人がいれば、それでいいかと。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1130480344#CID1130692373

私も、進化論と創造論というサイトをやっていたりするので、他人事ではない。サイトのほうは意識して「ですます」調で書いているが、掲示板だと、つい攻撃的になってしまったりする。私は菊池さんほど禁欲的にはなれない。菊池さんのように「何をどう考えて信じるにいたったのか」という視点から考えてみることも必要だろう。

*1:mixiは招待されないと見れない。誰か私を招待して。さっそく招待してもらいました。ありがとうございました。