NATROMのブログ

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少子化を遺伝子によって説明する

ある学説について、よくある誤りを検討することによって、その学説についての理解は深まるだろう。たとえば、特殊相対性理論について、双子のパラドックスを検討すれば、理解は深まる。進化生物学について誤りの宝庫のブログは、進化生物学について理解を深めるネタを提供してくれる。特殊相対性理論について誤解していても大して困らないが、進化生物学の、特に人間行動に関与する部分については、政策決定に影響することもあろう。たとえば、「女性は家庭で子育てをするよう、遺伝的に決定されている」という誤解が広く行き渡れば、そのような誤解をもとに政策が決定されることもありうる。民主主義社会においては、全員とは言わないが、なるべく多くの人が進化生物学についてある程度の理解をしていることが望ましい。

さて、ネタはいっぱいあるのだが、今回は、家族計画(子の数のコントロール)についてを取り上げよう。

■「ゲームの理論」と少子化(科学で政治・社会を考える:論理政治科学研究室)

において、ムサシ氏は、セーシェル・ヨシキリの例を挙げている。セーシェル・ヨシキリの一巣あたりの卵の数が1個であることの理由として、天敵がいないことを挙げ、


 つまり、”一個産めば”確実に育つのです!
 ”確実に育つ”のだから、「一個でいい」のです。
 「生物は”安全なところ”では、多くの子孫を作る必要が無い!」
 これが、「生物学」「進化論」の結論です。

と書いている。一方、鮭は多数の卵を産むことを挙げている。要するにr-K戦略の話である。引用部分の表現は、厳密に言えば間違いであることにお気付きだろうか。群淘汰的な考え方をしていたら、この種の間違いにはなかなか気付かないが、遺伝子の利己性を考慮に入れると容易に気付く。

一巣あたりの一卵の個体ばかりいるセーシェル・ヨシキリの個体群に、突然変異か移入で、一巣あたり二卵産む個体が入り込んだらどうなるであろう。天敵もおらず安全であるから、二羽の雛を育て上げるだろうか。そんなことはない。最終的に育て上げることのできる子の数は、一巣あたりの一卵の個体のほうが多いであろう。もし、一巣あたりの二卵産む個体のほうが繁殖成功するのであれば、セーシェル・ヨシキリの個体群は、とっくの昔にそのような個体にとって代わられているはずだ。

引用部分をより正確に言いなおせば、”確実に育てる”ために、「一個しか産めない」のです。となる。セーシェル・ヨシキリは、多くの子孫を作る必要が無いから一個しか産まないのではない。なるべく多くの子孫を作るために最適な一巣あたりの卵の数が、セーシェル・ヨシキリの場合には一個だったというだけである。さて、間違いもこのくらいであれば、まだかわいいものだが、ムサシ氏は、セーシェル・ヨシキリの結論を安易に人にあてはめる。



 ここまで話せば、気の利く方は「あっ!そうか・・・”少子化”も同じ理屈なんだ!」とお分かりになられると思います。
 その通りです!なぜ、「先進国で少子化」が起こるのか?なぜ「世界で”一番安全”な国・日本で顕著なのか?」ピタリ・当てはまります!
 「先進国は安全」だからです。日本は特に!

「セーシェル・ヨシキリではこうだ。だからヒトでもこうである」式の論理の危うさは指摘するまでもない。セーシェル・ヨシキリと現代日本における少子化の違いは、現代日本においては、女性はその気になれば多くの子を産んで育て上げることができるのに、そうしないという点だ。一巣あたり二卵産むセーシェル・ヨシキリは最終的に育て上げることのできる子は少なくなる。一方、日本の女性が多くの子を産んでも、最終的に育て上げることのできる子が少なくなることはない。むしろ、自然状態では養いきれないほどの多く子を産んだとしても、国家の介入によって、子は育つことができる。

先進諸国における少子化は、セーシェル・ヨシキリの事例ほど単純ではない。後述するように、少子化を条件付戦略として進化論的に説明することを試みるのは、それほど悪い考えではない。それはそれで検討するべきことである。それにしても、「安全であるから少子化になった」のであれば、安全である環境が続く限り少子化は続くのではなかろうか。ムサシ氏の主張は一貫していない。むろん、少子化が続くことで社会制度が不安定になり、治安を維持できないようになった結果、「自然に少子化が解消」するかもしれないが、そのような解決を望んでおられるのだろうか。



 「日本の少子化」も”単に人口が増えたから”です。「テリトリー(住居の敷地)がいっぱいになり、”これ以上増える余地が無い”状態」だjからです。明治維新の時の人口が”3500万人”、戦前でさえ”7000万人”(台湾・朝鮮の人口を加えて、1億と言っていたが・・・)に過ぎません!
 それが、今や”1億2700万人”!増え過ぎですよ!
 ”テリトリーが重なり合い”、「ストレスが溜まる」状態です。もっと人口を減らして、「ゆったりとした生活」を目指したほうがいいですよ!

日本の少子化を「単に人口が増えたから」とするのは誤りである。そうした単純化が誤りであることは、人口過密であるのにも関わらず出生率が下がらないヒト集団が存在することで容易に示される。「先進国は安全だから少子化になった」と書いた同じエントリーで、「少子化は単に人口が増えたから」となぜ書けるのか理解に苦しむ。ムサシ氏の主張の一貫性のなさがここでも示された。好意的にみれば、環境が安全になったことや、人口が増加したことなど、少子化の原因は複数あるのだ、とムサシ氏は言いたかったのだとも解釈できる。だとしても、「単に人口が増えたから」という表現には問題があるし、他の少子化の原因がなくならない限り、人口が減りさえすれば「自然に少子化が解消」するとは限らない。

さて、宿題となっていた、条件付戦略による少子化の進化論的説明を試みよう。条件付戦略とは、たとえば、以下のようなものである。「周囲に同種個体が少なければたくさんを子を産め。過密なら子の数は少なくしろ」。実際に、ハツカネズミがこうした戦略に従っているように見えることが実験的に示されている。「利己的な遺伝子」のP189に、こうした条件付戦略がなぜ成功しうるのか説明している。自然状態では、過密な状態は将来の飢饉の指標である。過密時に子の数を制限する個体は、そうしないライバルの個体と比較すれば、最終的には多くの子を育て上げることができるであろう。

さて、ハツカネズミはそうした戦略に従っているかもしれない。ヒトに関してはどうだろう?既に述べたように、人口爆発が起こっている発展途上国の例を見るに、ヒトではそのような条件付戦略を進化させていないように見える。進化を考えるときには、常に過去にどのような状況であったかを考えねばならない。過去にヒト祖先の集団が人口過密を経験したことがなければ、人口過密に対する適応的な行動を進化させることはできない。

子を産んでも育てられないような環境で子の数を制限する適応的な行動がヒトにはまったくないと言っているわけではない。たとえば、飢餓のときに月経が停止したり、ストレスフルな環境下では妊娠しにくかったりするのは、適応的な形質なのかもしれない。先進国における少子化がどれくらいまで進化論的に説明できるのか考えることは有用であろう。もしかしたらかなりのところまで説明できるかもしれないし、ほとんど説明できないかもしれない。前者であれば、少子化対策の役に立つかもしれない。問題は、そうした検証をすっとばして、自らのイデオロギーにあった結論を、「一番確か」などとしてしまう態度である。

社会生物学をめぐる論争のいくつかは誤解に基づくものであった。「社会生物学の勝利」には、社会生物学についての誤解のリストが述べられている*1


(4) 社会生物学は、いくつかの行動形質は遺伝的に決定されているという主張に基づく還元主義的学問である。
(5) 社会生物学は、人間の行動と他の動物の行動とを、気まぐれに選び出して利用している。
(6) 社会生物学は、検証していないし、検証不可能な「なぜなぜ物語」を生み出すことに専念する、純粋に机上の空論である。

こうした誤解は、まさしくムサシ氏が陥っているような誤解だ。社会生物学は「各人の好み・行動様式は(遺伝子的に)予め定まっている」という前提に立つ学問であると言い、セーシェル・ヨシキリの例を安易に人間の少子化に当てはめ、「[検証]出来ない「空想・仮説の域」にまで現代科学の思考は及んでいる」として検証責任から逃れる。社会生物学の批判者たちは確かに間違っていたが、完全に間違っていたというわけではない。社会生物学は、ムサシ氏が陥っているような誤解を招きやすい、イデオロギーに利用される危険のある学問である。社会生物学が正しく理解されることを願うばかりである。

*1:なんとムサシ氏は「社会生物学の勝利」を推薦している。自分の推薦している本を読まなかったか、あるいは読んでも理解できなかったかであろう