ニコラス・ハンフリーは、その著書、■内なる目―意識の進化論の中で、人の意識は自分と似た他者の行動を理解するために進化したのかもしれない、という仮説を展開している。
はい、それはそれとして、うちのチビの話なのだが、人並みの男の子ぐらいには活発で、よって人並みに怪我をする。怪我っていっても、かすり傷だ。バンソウコウもいらないようなものだが、普段は痛みを忘れていても、風呂に入るときにしみて痛がる。風呂に入りたがらなくて往生する。無理矢理脱がして無理矢理風呂に入れるという手段もあるのだが、それでは芸がないので、風呂に入るときにちょっとした遊びを行うことにした。ジャンケンをして、負けたほうが服を脱ぐという、要するに野球拳。チビも、全裸になったらしょうがなく風呂に入る。
もし、意識がそもそも何かに対する解答であるとするなら、それは人類(おそらくは人類だけ)が遭遇しなければならなかった生物学的な試練に対する解答でであったに違いない。その試練は、他の人間の行動を理解し、反応し、操作しなければならないという人間の必要性の中に横たわっていたのではなかろうか?(P78)
さて、発達段階においてジャンケンの戦略が変化してきて面白い。ちょっと前までは、「グーをだしてね」と大人に言っておいて、自分はパーを出していた。これを戦略といっていいものかどうかはともかく、大人のほうが着ている服が多いので、ちょこちょこ負けてやると機嫌よく遊ぶのでちょうどよかったのだ。それが最近では、「ぼく、パーをだすよ」と言っておいて、グーを出すようになった。「『パーを出す』と言っておく」→「『チョキを出すとチビに勝つ』と大人が考えるだろう」→「グーを出すと勝つ」という推論ができるようになったってことだ。
こうした駆け引きは高度なものであるのには違いなく、数ヶ月前まではまったくできなかったのだ。まさしく、「他の人間の行動を理解し、反応し、操作しなければならない」という必要性が、こうした行動をとらせるようになったのであろう。我々の祖先たちも、野球拳ではないだろうが、やはり他人の行動を推測し、操作する必要があったのには違いない。子の成長を見るのはうれしいものである。ただ、ジャンケンをして服を脱ぐ遊びをしているなどと、保育園の先生には言うものではないぞ、チビよ。