NATROMのブログ

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進化論のみ教えているのは日本だけ?


日本以外の先進国では。創造論と進化論と同じカリキュラム数教えています。
http://nexus.way-nifty.com/diary/2005/02/0201_.html#c1518141

欧米の教育では、創造論と進化論は同じ時間数教えることになっているそうですが、そうしますと科学者も含めて80%の人々が創造論を信じ、20%の人々が進化論を信じているそうです。
一方日本の教育現場では、進化論しか教えないので、欧米とは対象的に、80%の人々が進化論を信じているようです。
http://nexus.way-nifty.com/diary/2004/10/1012__1.html
いったいどういうわけだか、上記引用したような誤解が、キリスト教徒に限らず広くみられる。創造論者による宣伝がうまくいっているということなのだろうか。実際には、アメリカ合衆国においても、公立学校では創造論は教えられていない(私立学校では別)。アメリカ合衆国以外の欧米諸国においても、公的な教育で創造論が教えられているところは、私の知る限りはない。

「欧米では科学者も含めて80%の人々が創造論を信じている」というのも、言いすぎである。確かに、アメリカ合衆国において、一般市民の間では創造論を支持する割合はかなり多い。しかし、アメリカ合衆国であっても、狭義の創造論を支持する科学者はほとんどいないだろう。「狭義の」というのは、進化を否定する形としての創造論である*1。また、ヨーロッパ諸国においては、状況はどちらかというと日本に近い。


■生物科学Volume 56,No.1の鵜浦裕の記事から。


国際比較:「ヒトは下等な種から発達した」という意見に賛成する人の国別の割合と順位
国名順位割合%
ドイツ91.5%
日本90.1%
デンマーク89.1%
スウェーデン86.4%
オーストラリア83.6%
ポルトガル83.1%
ブルガリア79.4%
イギリス78.3%
チェコ76.8%
スロバキア1075.9%
スペイン1173.5%
アメリカ合衆国1446.2%
「進化論のみ教えているのは日本だけ」という誤解が広がっている理由のひとつは、1970年代のアメリカ合衆国の一部の州における授業機会均等法であろう。公立学校において、進化論と創造科学を同じ時間だけ教えようとする法律であるが、1987年に違憲判決がなされている。それ以降は、アメリカ合衆国においてすら、創造論と進化論は同じ時間数教えられているということはない。1987年以降は、創造論運動は、創造論を教室に持ち込もうとする代わりに、進化論を教室から追い出そうとした。その一つが、1999年にカンザス州において州教育委員会が教育課程から進化論とビッグバン理論を外した決定である。アメリカ合衆国の科学者であるグールドはこう書いている。


■タイム (米国版) 8月23日号 VIEWPOINT
進化論に対して政治的な関わりを持ち、このように もめ続けている国は 西側諸国には見当たらない。 -- 何の論争も無しで、基本的な一つの課目として教えられている。 それらは全て、我々と社会文化的伝統を同じくする国々である。

長期にわたる 嘆かわしい アメリカの反知性主義の歴史の中での、この出来事で、何故騒がなければならないのか。 私が指摘したいのは、我々が 国を愛する米国人ならば、バツの悪さで消え入ってしまうべきなのだ。 つまり科学技術の新しい一千年期の夜明けにおいて、我が国の中核地域の、ある区域が、人類の偉大な発見の一つを抑圧する道を選択してしまったのだ。

進化論とは些末なものではなく、全ての生物科学を組織化する基幹である。西洋の伝統では、聖書やシェイクスピアを読んだ事の無い人間は、教育を受けたとは見なされない。 そして進化論について無知な者は、科学を理解するとは見なされないのだ。

少なくとも欧米諸国では、生物の由来に関するもっとも確からしい科学的仮説、つまり、進化論が教えられている。例外は、アメリカ合衆国の一部の州だけであり、その一部の州についても、科学者らの働きかけによって創造論運動は後退を余儀なくされている。最近の運動で言うと、創造論運動にできたことは、創造論を教室に持ち込むことでもなく、進化論を試験の範囲外にすることですらなく、進化論を疑う但し書きを教科書につけることだけである。しかも、すぐに違憲判決がくだっている(■進化論を疑うステッカーは憲法違反)。「日本の常識は世界の非常識」と言われるとなんとなく信じちゃう人もいるかもしれないが、こと進化論教育に関しては、「アメリカ合衆国の一部の州の常識は、世界の非常識」である。

*1:つまり、「神様は進化という手段を用いてさまざまな生物を創造した」という主張は「狭義の創造論」ではない