■虫を愛し、虫に愛された人―理論生物学者ウィリアム・ハミルトン 人と思索(長谷川真理子 編)
ダーウィン進化論は科学的に正しい仮説として科学者集団に受け入れられているが、創造論者の宣伝やトンデモ本の影響なのか、「神による創造」を認めることはしないにせよ、ダーウィン進化論が科学的根拠に乏しい説だと勘違いしている人も結構いるようだ。ときどき、「実際の生物をよく観察してみると、ダーウィン進化論では説明できないことがよくわかる」という意見を聞く。
「ダーウィン主義者は生物をよく観察していない」とでも思い込んでいるのだろうか?ダーウィン進化論を批判する人は、医師とか物理学者とか、せいぜい生化学者だ。ダーウィン進化論に否定的なナチュラリストとしては今西錦司以降はあまり聞かない。一方、現在におけるダーウィン主義者の代表ともいっていい進化生物学者のドーキンスはアフリカ生まれでグンタイアリを観察した経験を書いているし、「社会生物学」を書いたE.O.ウィルソンはアリの大家だ。そもそもがダーウィンからしてナチュラリストであり、蔓脚類(フジツボ類)の大著やサンゴ礁やミミズの本を書いている。
そして今回紹介するのは、ウィリアム・ハミルトンだ。一般書を書いていないため、グールドやドーキンスと比較すれば知名度は低いが、遺伝子を自然淘汰の単位とする基本的な考え方、特に血縁淘汰のアイデアをつくりあげた人だ。「利己的な遺伝子」の人名索引を見ると、ハミルトンは20箇所以上で言及されている。ハミルトンは2000年に63歳で急逝した。この本は、生前に日本の雑誌に掲載された自伝と、日本の研究者らによる追悼文からなる。
自伝は虫の魅力に取りつかれた子ども時代のころから始まる。溺れているマルハナバチを拾い上げようとして指を刺され、丸太の樹皮をめくってアリの蛹や紫色に輝く甲皮を持つオサムシを、ときには、ネズミの子やアシナシトカゲも発見する。蝶や蛾の採集や飼育にはまるうち、遺伝学および進化理論について書かれた蝶に関する本をきっかけにして、進化への興味を持つようになり、ケンブリッジ大学へ進学し、血縁淘汰説を発表した。ハミルトンは理論家であると同時に、ナチュラリストでもあった。南米でハチやクワガタムシやダイコクコガネの研究をしている。自伝「虫との日々 埋葬の計画」はこう締めくくられている。
…私はいくばくかの資金を残し、遺体はブラジルへ、この森へ運ぶように遺言を書き残す。私の体はオポッサムやコンドルの餌食にならないよう、ニワトリを森の中に置いて実験したときと同じように、金網で覆って横たえる。後はこの偉大なダイコクコガネが私を埋葬してくれるはずだ。彼らは私の中に入り込み、私の体を土に埋め、私の肉を食べて生きるだろう。私は彼らの子孫と私の子孫に姿を変えて生き残っていく。ウジムシも、不潔なハエもたかることはない。夕闇につつまれて、私は巨大なマルハナバチの羽音のように低いざわめきをたてる。私は無数の部分に分かれていき、ほとんどオートバイのような大きな音をたてる。体は次々と空に舞い上がり、星々の下に広がるブラジルの大原野に飛んで行く。その背には皆、美しい翅鞘をそなえ、それを広げて空高く飛翔する。そしてついに私は、石の下で見たあのオサムシのように、紫色に輝くのだ。