NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

HBe抗体陽性例の感染力

前回のエントリーに関連して、今日はB型肝炎の感染力についての話をする。B型肝炎ウイルスマーカーはたくさんあってややこしい。私が学生のころに覚えた方法は、HBs抗原/抗体は「存在(Sonzai)」に関するマーカー、HBe抗原/抗体は「影響力(Eikyo)」に関するマーカーである、というもの。HBs抗原陽性かつHBe抗体陽性者には、B型肝炎ウイルスが「存在」はしても「影響力」は小さい(つまり感染力は弱い)わけである。感染力は弱いといってもHBe抗原陽性者と比較してであり、感染力がないわけではない。ていうか、HBe抗体陽性であっても、HIVやC型肝炎ウイルスよりも感染力は強い*1。この覚えかたもかなり大雑把で例外はいくらでもあるのだが、国家試験レベルではこれでOK。逆に言えば学生でもこれぐらいは知っているわけである。医師国家試験で、

腎移植ドナーはHBs抗原陽性であったが、HBe抗原陰性・HBe抗体陽性であったので、感染力はほとんどないと判断した。

という問題が出たら、答えは×である。下手したら禁忌肢*2だ。そういう訳で、万波医師の「当時の肝臓病の常識として感染性はないと判断される」というコメントは、どこかがおかしいとすぐに気付いた。ちなみに当時というのは腎移植が行なわれた2000年12月である。それで「移植が行なわれた当時であっても弱いながらも感染力があるとするのが常識」と書いたところ、トラックバック先のBecause It's Thereというブログで、ブログ主の春霞さんが追記として、


■市立宇和島病院の調査委員会、最終報告を発表〜“腎移植→B型肝炎感染→死亡”だったのか?(Because It's There)


しかし、「肝臓専門医にコメントを求めたところ、当時の肝臓病の常識として感染性はないと判断される」のであり、その旨の「当時のこれらのデータの評価を示す文献として、例えば、日本消化器病学会雑誌98巻P206からP213,2001年があ」るのに、(こちらは根拠を示しているのに)「NATROMの日記」さんは客観的資料を示すことなく、自分の思い込みで「感染力があるとするのが常識」と述べています。「HBs抗体が陽性という事は完治に近いと肝臓専門医の先生方に教えられてきた」というB型肝炎患者の見解も全く無視です。「NATROMの日記」さんは、B型肝炎患者をよく知る「肝臓専門医」よりも、優秀さを誇っておられるようです。
(中略)
ここにも、客観的証拠を無視し、米国の移植事情も知らず、臨機応変に反応のできない者がいるです。困ったものです。


と書かれた。「客観的証拠を無視し、米国の移植事情も知らず、臨機応変に反応のできない者」というのは、文脈から私のことを指しているのは明らかだ。mixiで書いた内容*3とかぶるが、当時の常識としてHBe抗体陽性であっても感染力があったと考えられていたことを示す資料を引用することにする。「Bed Sideノートシリーズ 肝炎」は、一般内科医向けの日本語の教科書で1998年7月発行、つまり問題となる腎移植の1年半前に書かれた。針刺し事故について書かれたP221から引用する。



また、感染源がHBe抗体陽性の場合は、通常感染力は弱いと考えられHBIG*4のみの投与で良いと、従来は考えられていたが、ミュータントウイルスの存在が判明している現在ではHBIGとHBワクチンを併用したほうが良いと考えられている。


この記述から当時の状況で分かることは2点。一つ目が、感染源がHBe抗体陽性であっても弱いながら感染力があり感染対策が必要である、ということ。これは学生レベルの知識である。二つ目が、ミュータントウイルスの存在という新しい知見を考慮すると、感染源がHBe抗原陽性であった場合と同じ対応が望ましいということ。これは、肝臓が専門でなくても一般内科医であれば知っていても良いレベルの知識である。もちろん、肝臓専門医は知っていなければならない。資料が一つだけでは不十分であると言う人もいるかもしれないので、肝疾患における肝炎ウイルスマーカーの選択基準(3版)日本消化器病学会雑誌98巻P206-213,2001年から、表およびHBe抗体の項目を引用する。


肝炎ウイルスマーカーの臨床的意義 HBe抗体 血中HBV少ない(感染性弱い),肝炎例少ない
肝疾患における肝炎ウイルスマーカーの選択基準(3版)日本消化器病学会雑誌98巻P206-213,2001年より引用。赤線は引用者による

6) HBe抗体
 HBe抗原に対する抗体である。HBV*5による肝炎時に産生されるが、HBe抗原が減少・陰性化した後で検出されるようになる。HBe抗体が持続的に検出される場合は存在するHBVは主としてpre-C mutant typeである。このmutantは通常増殖力に乏しく肝炎を起こすことは少ないが、増殖力を得た場合には激しい肝炎を起こす。B型劇症肝炎起因ウイルスと想定されている。

ちなみにこの資料は、「当時の肝臓病の常識として感染性はないと判断される」根拠として万波医師病気腎移植推進・瀬戸内グループ支援ネットが提示した、まさにその文献である。しかしこの文献のどこにも「感染力はほとんどない」とは書かれていない。「客観的証拠を無視した」と私を批判し、「(移植でウイルス感染したと考えた)調査委員会の医師の医学的知識は大丈夫なのだろうか」と心配する春霞さんはこの文献を読んでいないそうだ。他の万波支持者もほとんど読んでいないと思う。

病腎移植の妥当性については私は判断を保留している。まったくの健康腎の移植しか認めない一方の端と、癌や感染をまったく気にせず移植を行なうもう一方の端との、間のどこかに線を引くべきだと思う。どこに線引きするかは議論があってしかるべきだが、きちんと議論したいのであれば専門的な知識が要求される。線上にある微妙な症例について移植を行なうかどうか個々の医師の裁量で決めてもよいと思うが、実験的・先進的な医療であることを理解し、十分なインフォームドコンセントを行ない、後の患者さんを助けるのに役立つように記録を残す義務が医師にはある。「他にも病腎移植は行なわれているのに、なぜ万波医師だけがこんなに批判されるのか」と支援者は思っているようであるが、この辺の事情を勘案されたい。

万波医師のB型肝炎ウイルスの感染力についての認識はかなり問題があった。他にHBs抗原陽性ドナーからの移植例は、日本のものも含めいくつか報告があるが、私が見た範囲内ではどの例もB型肝炎ウイルスの感染力の強さを認識し感染対策がなされている。「HBe抗体陽性なら感染力はほとんどない」などという杜撰な認識のもとになされた腎移植がもし他にもあれば、批判されるに値する。報道によれば、レシピエントの1人は移植の3ヵ月後に再移植を受け、その約2カ月後に肝障害を伴った重症膵炎で死亡している。死亡時にはHBs抗原とHBs抗体がいずれも陽性だった。公表されている情報から判断すると、肝障害にB型肝炎ウイルスが寄与している可能性はかなり高く、膵炎もB型肝炎ウイルスが関与した可能性を否定できないと私は考える。

ただ、私見では万波医師の落ち度としてはそうは大きくはない。刑事責任を問われるようなことではない*6。民事としても、もともとのレシピエントの状態や移植に対する希望を考慮すると、責任はそう大きくないのではないか。肝臓内科医から見れば言語道断な行為ではあったが、医療が細分化した現在では専門外の領域の知識をすべて網羅するのは困難である。私も、専門外のすべての領域について国家試験レベルの知識を維持しているかと言われるときついものがある。移植医なんだからB型肝炎についてぐらいは知っておいて欲しいとは思うけど。もし本当に「当時の肝臓病の常識として感染性はないと判断される」と肝臓専門医がコメントしたのであれば、そいつから医師免許を剥奪すべきである。ただそこまで阿呆な肝臓専門医がそうそういるとは思えないので、肝臓内科医との連携に問題があった(「一般的には感染力は弱いとされている」が「感染力はないと判断される」と誤って伝わったとか、万波医師の前では正直に意見を交換できない雰囲気であるとか)のではなかろうかと思われる。問題点は、HBs抗原陽性ドナーから腎移植してしまったことよりも、むしろ、それが間違った判断であったという認識が今現在でも万波医師側にないことである。問題点が認識されないと、同じようなことがまた起こるであろう。


*1:たとえばhttp://www.bitway.ne.jp/ejournal/club/1543101232.htmlなどを参考に

*2:間違えるとヤバイ重要な問題。私が国家試験を受けたころはまだなかったように記憶している

*3:なとろむの日記:病腎移植−勝手に支援されても迷惑だろうhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=443680799&owner_id=1877426

*4:引用者注:HBIG=B型肝炎免疫グロブリン

*5:引用者注:HBV=B型肝炎ウイルス

*6:追記(2008年9月6日):「医師はすべての医療ミスについて免責を要求している」と誤解する人もいることを考えれば、もうちょっと慎重に書くべきだったかもしれない。