2003年01月12日の毎日新聞に、大島秀利記者による「化学物質過敏症:成人患者推計70万人 シックハウス対策急務」という記事が掲載された。
国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)が、シックハウス症候群の重症例であるCS(化学物質過敏症)について、米国の一般的な判断基準となっている問診票を使って日本国内の成人に調査した結果、0.74%がCSの可能性が高いことが分かった。日本の一般市民を対象としたCSの広範な調査は初めて。調査を担当した元国立公衆衛生院労働衛生学部長の内山巌雄・京都大大学院教授(環境保健学)は「CS患者の疑いのある人が、成人だけで全国に約70万人は存在すると推計され、対策が急がれる」と話している。
(中略)
調査の問診票は、湾岸戦争(91年)帰還兵士の調査など米国で広く使われており、国際的に信頼度が高い。「殺虫剤、除草剤にどの程度反応するか」「ペンキ、シンナーにどの程度反応するか」など計30の質問があり、回答を集計して一定以上の点数がある場合、CSの可能性が高いと判定される。
国立公衆衛生院の調査は00年7月、無作為で選んだ全国の成人4000人を対象に面接方式で実施し、2851人(71.3%)から回答があった。その結果、CSの可能性の高い人は21人(回答者の0.74%)だった。
柳沢幸雄・東京大大学院教授(室内環境学)によれば、未成年まで考慮すると、100万人近くがCSである可能性を示す調査結果だ。自覚症状がなかったり、誤った診断をされているCS患者が多数潜在していると思われる。
毎日新聞のサイトでは既に元記事は参照できないが、ここ(シックハウス関連ニュース )やここ(環境問題関連ニュース)に記事は残っている。「シックハウス症候群の重症例である化学物質過敏症(CS)((厳密には化学物質過敏症(Chemical sensitivity)と、多種類化学物質過敏症(Multiple Chemical Sensitivity)も異なる疾患とされるが、大きな影響がないので本エントリーでは区別しない))」とあるが、これはよく見られる誤りである。シックハウス症候群と化学物質過敏症はオーバーラップすることがあるものの、異なる疾患であるとされている。さて、ここで問題にしたいのは、約70万人という推計が妥当であるかどうかである。そもそもが化学物質過敏症は、定まった定義や診断基準がなく、公認された疾患ではない。Quackery(インチキ医療)について情報を提供しているサイトであるQuackwatchでは、多種類化学物質過敏症は"Questionable Products, Services, and Theories(疑わしい製品、サービス、理論)"の一つとされている(参考:Multiple Chemical Sensitivity:A Spurious Diagnosis)。
さて、「国際的に信頼度が高い」問診票に関して、記事が出た直後に、毎日新聞あてに
という問い合わせのメールを実名・当時の所属組織を記入して送ったが、返事はなかった。毎日新聞の元記事では、この問診票が具体的に何なのかは明示されていなかったが、化学物質過敏症患者のスクリーニングのために開発された調査票であるQEESI (Quick Environmental Exposure and Sensitivity Inventory)のことであった。ちなみに、2003年1月にMEDLINE(医学論文データベース)で"QEESI"もしくは"Quick Environmental Exposure and Sensitivity Inventory"で検索したところ、該当する論文は0件であった。QEESIは、EESIの簡易版であるとのことで、"EESI"でも検索してみたが、こちらは同一著者による2件のみ引っかかった。「国際的に信頼度が高い」「米国の一般的な判断基準となっている問診票」にしては奇妙な結果である。化学物質過敏症を提唱している臨床環境医(Clinical ecologist)というグループの間でのみ受け入れられているだけであって、特に国際的に信頼性が高いわけでも、米国で一般的な判断基準になっているわけでもないと私は思う。
・何をもって、「国際的に信頼度が高い」と判断されたかご教示ください。
・「国際的に信頼度が高い」ことを裏付ける資料、できれば国際的な医学雑誌に掲載された論文などがございましたら教えてください。
日本語の医学論文検索エンジンで「内山巌雄」「化学物質過敏症」等のキーワードで検索してみたところ、「QEESI調査票を用いた化学物質過敏症の全国調査」という論文が検索できたので入手してみた。この論文では、QEESIの「Chemical Exposure(化学物質曝露による反応)」「Other Exposures(その他の化学物質曝露による反応)」「Symptom(症状)」の3項目各10問、合計30問について調査を行い、スコアがカットオフ値以上の人を化学物質に対する感受性の高い群としてスクリーニングし得るとしている。結果は、3項目とも基準を満たしていたのは回答者中の0.74%(2851人中21人)であったとのことである。毎日新聞の記事では、この0.74%に、成人の総数をかけて、「約70万人」という数字を出してある。しかし、QEESI調査票の妥当性、つまり、「回答者中の0.74%」が、本当に微量の化学物質によって症状が誘発されるかどうかの検証はなされていない。「QEESI調査票を用いた化学物質過敏症の全国調査」から引用する。
化学物質過敏症の診断が正しくなされていないか、QEESI調査票では化学物質過敏症を正しく診断できないか、どちらか(もしくは両方)だと思われる*1。いずれにせよ、現状で「化学物質過敏症:成人患者推計70万人」という数字は妥当ではないと私は考える。調査を行った内山巌雄・京都大大学院教授からして、「感度・特異度ともに課題を残しているように思われ」と書いているのだ。QEESI調査票で高いスコアの人は、身体的・精神的な問題をかかえている可能性が高いと思われるので、なんらかの対策は必要であろう。しかしながら、化学物質の曝露のみが原因であると決め付けるわけにはいかない。化学物質過敏症とされている人が、主観的には化学物質の曝露によって症状が悪化するように感じられても、ブラインド条件下では化学物質を負荷されても症状は誘発されないからである。アカデミックな場所では化学物質過敏症の存在自体すら議論になっているというのに、成人患者70万人という数字だけが一人歩きしている(参考:"70万人" "化学物質過敏症"でGoogle検索)。
特にスコアについては、本調査では実際にCSと診断されたと回答した23名(0.7%)の内、実際に同基準を3つとも満たしている人は1名のみであり、CSと診断された人の半数以上が基準を1つも満たしていなかった。3項目のそれぞれのカットオフ値を超えた人の割合は、CSと診断された人の方がCSでない人と比較してやや高かったが、差はそれほど大きくなく、感度・特異度ともに課題を残しているように思われ、今後の検討課題である。
*1:化学物質過敏症と診断されたが、治療によって調査時には改善していたという可能性もある。しかし、化学物質過敏症の治療は原因とされる化学物質からの回避が主で、調査票にあるような症状や化学物質曝露による反応を改善させるような治療は考えにくい