NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

HPVワクチンが子宮頸がんを増やすというニセ情報を検証してみた

子宮頸がんの原因の大多数はHPV(ヒトパピローマウイルス)の慢性感染であり*1、HPVワクチンによってHPVの感染を防ぐことで子宮頸がんを予防することが期待できる。もちろんワクチンである以上、100%の安全性は保障できず、頻度はともかくとしてHPVワクチンが重篤な副作用を引き起している可能性は否定できない。ニセ医学に頼らなくてもワクチンの害について議論することはできるのだが、一部のというか、多くの「反HPVワクチン」論者は完全にニセ医学側に立っている。不幸なことだ。

彼らの定番の「デマ」の一つが「HPVワクチンは子宮頸がんを減らすどころかむしろ増やしている」という主張だ*2。一般の人たちだけではなく、科学コミュニケーションや 科学ジャーナリズム論を大学で教えている先生も「釣られている」*3。何らかの対抗言論が必要だと考えた次第だ。

HPVワクチンがHPVの感染を防ぐこと、および、前がん病変を減らすことは、臨床試験においてもリアルワールドの観察研究においても示されている。ワクチンが子宮頸がんも減らすと考えるのが合理的であり、よほどの強い証拠がない限り、HPVワクチンが子宮頸がんを増やすとは言えない*4。実際、HPVワクチンで子宮頸がんが増えるという主張には、強い証拠どころか、きわめて薄弱な根拠しか示されていない。以下、オーストラリアとイギリスの事例について検証する。


オーストラリアの子宮頸がん罹患率(発生率)上昇は高齢化のせい

「オーストラリアでは2007年からHPVワクチンが導入されたが、むしろ子宮頸がんは増加し続けている」という主張とともに以下のようなグラフが提示される*5


「2007年からHPVワクチンを接種してますが子宮頸がんは減るどころか増加し続けています」


相応の医学知識を持っていれば、このグラフではHPVワクチンが子宮頸がんを増やすとは言えないことはすぐにわかる。よしんばワクチンが子宮頸がんを増やすとしても接種直後から増えるはずがない。提示されているのは全年齢の罹患数*6であり、ワクチンの影響が出るのはワクチン接種後からかなり時間がかかる。そもそもHPVワクチン導入の2007年の前から増加傾向である。このグラフを出してHPVワクチンが子宮頸がんの増加と関係があるかのように述べるのは、騙されているか、騙そうという意図があるかのどちらかだ

ワクチンのせいではないとして、なぜオーストラリアで子宮頸がん罹患率が上昇しているのか。実際のところ、オーストラリアにおける子宮頸がん増加は高齢化のためだ。年齢調整後の子宮頸がんの罹患率を示す。年齢を調整すればワクチン導入後の罹患率の上昇は観察されない。


オーストラリアにおける年齢調整子宮頸がん罹患率の推移

イギリスで25~29歳の子宮頸がんが増えているのはワクチンとは無関係

「2008年からHPVワクチンを導入している英国ではこの10年で25歳から29歳における子宮頸がんが54%増加している」という言説も、ワクチンが子宮頸がんを増やすという「デマ」に利用されている。しかし、もともとの引用元であるCancer Research UKでは明確に、子宮頸がん検診と同時にHPVワクチンが推奨されている。


■Cervical cancer progress falters as screening uptake hits record lows | Cancer Research UK


Cervical cancer is caused by the human papilloma virus (HPV) – an infection that around 8 in 10 people in the UK will get and can now be vaccinated against. In the last 20 years Cancer Research UK funded clinical trials to help create the HPV vaccine, which is now offered to children across the country and expected to save many lives.
(DeepLによる機械翻訳)子宮頸がんは、ヒト乳頭腫ウイルス(HPV)によって引き起こされます - 英国では10人に8人がかかる感染症であり、現在ではワクチンを接種することができます。過去20年間、Cancer Research UKは、HPVワクチンを作成するための臨床試験に資金を提供し、現在、全国の子供たちに提供されており、多くの命を救うことが期待されています。


Cancer Research UKが25~29歳における子宮頸がんの増加を述べたのは、だからこそHPVワクチン接種と子宮頸がん検診が重要だと言いたいがためであり、ワクチンにがん促進リスクがあるかのようにほのめかす文脈に引用するのはチェリーピッキング、不適切な引用だ。大学で科学コミュニケーションを教えるような先生であればこそ、こうした不適切な引用を批判すべきであろうに。

Cancer Research UKのサイトの注釈によると、イギリスの25~29歳女性の子宮頸がん罹患率は、2004-06年の12.0人/10万人から、2015-17年の18.5人/10万人まで増えたとあり、これが54%増加の根拠だ。私の調べた範囲内では、25~29歳女性の子宮頸がん罹患率のピークは2013-15年で、21.0人/10万人だ*7。イギリスでは2008年からキャッチアップとして14歳~18歳の女性に対してHPVワクチンが接種されている。5年後の2013年には彼女らは19歳~23歳、7年後の2015年には21歳~25歳であり、2013-15年時点までの25~29歳女性の子宮頸がん罹患率の上昇とワクチン接種は関係はない。

キャッチアップ世代が25歳以上となる直前まで上昇し続けてきた25~29歳女性の子宮頸がん罹患率は、2015年以降、下がりつつある。一方、ワクチン世代ではない30~34歳の子宮頸がん罹患率は微増を続けている。2015-17年においては、25~29歳女性の子宮頸がん罹患率はワクチン世代ではない30~34歳の子宮頸がん罹患率と逆転した。ワクチンとは別の要因(性交渉開始年齢の低年齢化など)で上昇しつつあった若い世代での子宮頸がん罹患率が、HPVワクチン接種世代で逆転して減少しているように見えるが、子宮頸がん罹患率は、がん検診開始年齢等の他の要因にも影響を受けるため、現時点ではワクチンのおかげで罹患率が下がったとは必ずしも言えない。そこで断定的に述べると、反HPVワクチン論者と同レベルになってしまう。今後、複数の地域において質の高い検証が行われ、報告されるであろう。


その他の国についてもHPVワクチンが子宮頸がんの上昇の原因であることを示す証拠はない

今回はオーストラリアとイギリスの事例を述べたが、反HPVワクチン論者によれば、デンマークやスウェーデンやアメリカ合衆国でも子宮頸がんワクチン世代の子宮頸がん罹患率が上昇しているとのことである。しかし、私が検証した範囲内では、一つの例外もなくどれも証拠薄弱であった。

先進国でよくみられる子宮頸がん罹患率の推移のパターンは、がん検診の普及*8や公衆衛生の改善による減少後に、おそらく性交渉開始年齢の低年齢化による若年層における増加が続く(だからこそ検診だけでは不十分でHPVワクチンが必要だとされている)。自説に都合のよい時点を選べば、医学に詳しくない人たちにHPVワクチン開始後に罹患率が上昇したように思わせることは容易だ。

はなはだしい場合は、子宮頸がん検診の受診割合の増加のグラフを提示して子宮頸がん罹患率が増加したと主張されたこともあった*9。雑にもほどがあるが、こうした雑な主張であっても検証には手間取る。ネタ元の多くは海外の反ワクチンサイトである。反HPVワクチンサイトではなく、反ワクチンサイトだ。標準医療否定とも結びついており、ご承知の通り検証が追い付かないほどニセ情報が量産されている。ブログやSNSベースのHPVワクチンが子宮頸がんを増やしたという主張は信じないほうがいいし、そのような主張を批判的言及なしに紹介する論者は信頼に値しない。



関連記事:
■イングランドにおいてHPVワクチン接種世代の子宮頸がんは増加していない
■日本語で書かれた教科書も理解できない大学教員

*1:■「HPVは子宮頸癌の原因ではない」というトンデモ説を参照のこと。

*2:デマという言葉には「意図的」に流す嘘、という意味が込められているが、意図的ではない誤情報の場合にも使用されている。今回の件は意図的に誤情報を流しているのであろう人がいる一方で、意図的ではなく善意で情報を拡散している人たちもいるため、「」付きの「デマ」とした

*3:https://twitter.com/SciCom_hayashi/status/1298199194952273926

*4:2024年2月2日追記:2020年8月の段階では「ワクチンが子宮頸がんも減らすと考えるのが合理的」と書いたが、その後、リアルワールドでHPVワクチンが浸潤子宮頸がんを減らす報告が相次いでおり、2024年2月の段階では「ワクチンが子宮頸がんも減らすのはもはや確立された事実」だとみなしてよい。

*5:「HPVワクチンと子宮頸がん増加の因果関係については断定していない」という言い訳が予想できるが、sivad氏は、反ワクチン論者によく引用される、HPVワクチンがHPV既感染者の「前癌病変のリスクを44.6%増加させる」というデータを引用し、「逆にがんを促進するかもしれないリスクは副反応とともに重大な問題となるものでしょう」と述べた上で、わざわざ年齢調整されていないグラフを持ち出した(URL:https://sivad.hatenablog.com/entry/2019/06/02/215307)。はたして誠実な態度と言えようか。また、「癌病変のリスクを44.6%増加させる」というデータについては、詳しくは■「HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)の嘘」の検証(1)HPVワクチンは前がん病変のリスクを44.6%増やすのか? - うさうさメモを参照のこと。本当にHPVワクチンがHPV既感染者の前がん病変のリスクを増やすのであれば、10年以上前のデータだけしか提示できない理由について説明が必要だ

*6:2023年1月23日追記:「罹患率」を「罹患数」に修整。Y軸はNo. of cases、グラフのタイトルがIncidence(Incidence rate)であった。

*7:URL:https://uat.cancerresearchuk.org/sites/default/files/cancer-stats/cases_crude_f_cervical_i15/cases_crude_f_cervical_i15.xlsx

*8:一般的にがん検診はがん罹患率を上昇させるが、子宮頸がん検診は、前がん病変を発見し浸潤子宮頸がんに進行する前に治療介入することで子宮頸がん罹患率を下げうる

*9:https://twitter.com/NATROM/status/1068500715935387648

新薬に対する熱狂の弊害

新型コロナウイルス感染症に対する治療薬の評価がぼちぼち出つつある。トランプ大統領が推したことでも注目を集めたヒドロキシクロロキンはもともとは抗マラリア薬で、自己免疫性疾患にも使用されている。安価な経口薬で、使用実績が多く副作用の情報も把握されており、ヒドロキシクロロキンが新型コロナに効くなら大きな助けになったはずだが、残念ながら最近は旗色が悪い。

最近の報告だと、軽度から中等度の新型コロナウイルス感染症に対し、標準ケア、標準ケア+ヒドロキシクロロキン、標準ケア+ヒドロキシクロロキン+アジスロマイシンの3群を比較した、オープンラベル(非盲検)、ランダム化比較試験において、15日目の患者の臨床状態に有意差は見られなかった*1。参加者の合計は665人、それぞれの群は217~227人。アジスロマイシンは抗菌薬の一種で、併用するとウイルス減少に効果的だったという小規模な先行研究があった。

もちろんこの研究だけではヒドロキシクロロキンが効かないとは断言できない。研究にはそれぞれ限界や欠点があり*2、なんなら後に誤りや不正が発覚して撤回になる可能性だってある。一つの研究だけで結論が定まることはめったにない。ただ、他の研究も参照するにヒドロキシクロロキンはどうやら期待外れのようだ。効果があるとしても控えめで、少なくともトランプ大統領が言っていたような「ゲームチェンジャー」にはなれないのは確かである。

ここまでなら、当初高く期待されていた薬の効果が、より質の高い大規模な臨床試験で期待ほどではないことが明らかになった、というよくある話。加えて、薬への期待が異常に高まりすぎると弊害が生じるという教訓にもなる。米国アリゾナ州において、自己判断でクロロキンを予防目的で内服した男性が死亡したと報道された。トランプ大統領がクロロキンが安全で効果的だと主張するのをテレビで見たという*3。この男性が内服したのはヒト用のクロロキンですらなく極端な事例ではあるが、日本のワイドショーなどを視聴すると、特定の薬剤がさも特効薬であるかのように報道し、不確実性やリスクについての情報がきわめて不十分だと感じることが多々ある。

フランスでもクロロキンの期待が高まりすぎで悪影響が生じた。特定の医師がクロロキンを推奨し、国民の多くがクロロキンが広く利用できることを望んだという*4。よく言及されるのは、フランスにおいて、軽症の新型コロナ患者1061人に対してヒドロキシクロロキンとアジスロマイシンを併用投与したところ、973人(91.7%)が10日間以内に良好な臨床状態とウイルス学的治癒を得られたという研究である*5。対照群のない観察研究で、しかも無症状の患者も含まれており、改善が薬のおかげなのか自然治癒なのか区別ができない。「効果があるかもしれないから、ランダム化比較試験を行って検証する価値がある」ぐらいのことは言えるが、その結果は冒頭に紹介したように効果を確認できなかった。

医療には不確実性はつきもので、目の前に病気に苦しむ患者がいれば効果が不明確でも薬を使うという選択肢はある。結果的に効果がなく、あるいは、副作用が生じるということもあるだろう。不確実性について十分な情報提供が必須だ。ただ、メディアではとくに、「効果があるかどうか現時点ではよくわからない。重篤な副作用があるかもしれないし、それほどはないかもしれない」という正確だがあいまいに聞こえる言説よりも、「効果はあります。国民のために一刻も早く承認をすべき。命がかかっているんです!」と断言してくれる言説のほうが好まれるようだ*6。これは、洋の東西を問わない。

クロロキンを推奨するフランスの医師はメディアの人気者になった。一方で弊害として、フランスではクロロキンを処方しない医師が「物理的な脅迫」を受けた、ランダム化比較試験への参加者が集まらない(対照群に振り分けられたくないため)*7、クロロキンの在庫が不足して以前から薬を必要としていた患者さんに薬が届きにくくなった*8、といったことが起こった。日本でも似たようなことは起こっている。

臨床試験、とくにランダム化比較試験の意義について理解が得られていないことが原因の一つかもしれない。以下に挙げる主張はいずれも臨床試験を行わない理由にならない。「薬の作用機序から考えて効果が期待できる」「試験管内で抗ウイルス活性がある」「有名人の誰それが薬を飲んで良くなった」「何人もの人が薬の投与後に回復した」「新型コロナは急に自然治癒するような病気ではないから薬は効いたはず」「臨床医の実感として効果がある」「効かなかったらこんなにたくさんの人に使われていない」「有効ではないというエビデンスがない」。

エボラウイルス病(エボラ出血熱)に対して、有効で安全な治療法は確立していない。ランダム化比較試験がほとんど行われなかったためだ(実行された唯一のランダム化比較試験は流行が終了しつつあったため目標患者数を達成できなかった)*9。エボラウイルス病は新型コロナウイルス感染症よりもずっと致死率が高い。いったん罹患したら高い確率で亡くなるのでランダム化比較試験を行うのは非倫理的だ、 という意見もあるかもしれないが、それも誤りだ。いつまで経っても有効な治療法がわからない状態が続く方が非倫理的である。また、「重症者にはプラセボ効果がない」ことをもってランダム化比較試験ができないことにはならない。対照群には必ずしもプラセボ投与されるわけではないし、倫理的な理由でその時点での標準治療が行われるのが原則だ。エボラウイルス病に対して行われたランダム化比較試験では、「その時点の標準治療」として経口ファビピラビル(アビガン)が対照群にも投与された。

繰り返しになるが、ランダム化比較試験を済ませないと、その薬を投与してはならないと言っているわけではない。投与するなら、患者は不確実性について十分に説明され、また、医師には覚悟が必要である。すでに臨床試験が済み、十分に確立された治療であっても、想定される不利益について医師には説明義務がある。効果が未確認の治療法はなおさらだ。メディアで新薬(あるいは既存の薬の新しい使用法)について報じるときには、過度に煽らず、不確実性についても十分に情報を提供していただきたい。


新しいニセ医学「新型コロナ否認主義」

標準的な医学的知見を否定する名誉教授と市議会議員


日野市議会議員の池田としえ氏が、2020年6月8日に「新型コロナに迫る!」 *1と称して議会で質問をしたが、その内容に危惧を覚えたのでここで指摘する。端的に言えば、池田としえ氏は、YouTube等で徳島大学名誉教授・大橋眞氏が主張している「新型コロナウイルスは存在しない」というきわめて根拠に乏しい独自の説に基づいて質問を行った。動画*2を拝聴したところ、大橋眞氏の主張には問題点がいくつもあった。

「やはり、新型コロナウィルスは存在しない」と題する動画を紹介する池田としえ氏のfacebookの画像。
池田としえ氏のfacebookより。「やはり、新型コロナウィルスは存在しない」。URL:http://archive.vn/SsLPH

ほとんどの人がご承知であるが、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は重症の肺炎を引き起こす。しかし、大橋眞氏は標準的な医学的知見を否定し、「PCR検査で測定しているのは、病原性のない常在性ウイルスである可能性が高い。コロナ騒動は常在性ウイルスをみてそれで病気だ、たいへんだと国中大騒ぎしている」などと主張する。ただ、そう主張できるだけの根拠は提示されていない。大橋眞氏は、最初に武漢で報告された新型コロナウイルス感染症症例の肺において、免疫機能が落ちたために常在性のウイルスやバクテリア、真菌の類いが増殖している可能性を指摘した。そこまでは正しい。しかしながら、いまや、武漢だけではなく、世界中で新型コロナウイルスは確認されている。もし、新型コロナウイルスが病原性のない常在ウイルスであるのなら、世界中で多くの人が肺炎になり、死亡しているのはどういうわけであろうか*3。また、ニュージーランドや台湾といった防疫に成功している地域で新型コロナウイルスが検出されていない理由を説明できない。

大橋眞氏は「ウイルスを誰も分離していない」と主張しているがこれも誤りだ。新型コロナウイルスは分離もされているし細胞を用いた培養系も確立している。「このウイルスを使って感染実験、実証実験をしないとわからない」という主張も、現代医学を理解していないとしか思えない。新型コロナウイルスについてヒトに対する感染実験がなされていないのは事実だが、倫理的にそのような実験が許されるはずがない。コッホの原則(病気にかかった対象から分離された病原体を健康な個体に感染させ、病気が再現し同じ病原体が分離されることでもって病原体と病気との関連が示されるという原則)に触れて新型コロナウイルスの病原性が確認されていないとほのめかすが、コッホの原則には限界があることは現代医学では常識である。

感染実験なしでも、疫学的な方法で病原体と病気の関連を示すことはできる。たとえば、特定の井戸の水を飲んだ人たちにコレラが多く発症し、井戸の近くに住んでいるが井戸水を飲んでいない人からはコレラが発症してないことが観察できたとしよう。さらに、井戸水中およびコレラ患者の便中から同一の病原体が見つかり、健康な人から見つからなければ、その病原体がコレラの原因であると推定できる。付け加えれば、意図的にコレラ菌を感染させる実験を行わなくても、コレラ菌を含む井戸水を飲んでしまった人たちがコレラを発症することが、一種の実験(自然実験)になる。

新型コロナウイルスも同様の方法で病原体と疾患の関係を示すことができる。確かに、武漢の報告だけでは結果的に誤りであったということも可能性としてはありえた。しかし、世界中でこれまで経験したことにないような肺炎の流行が見られ、それらの症例中から高い確率で新型コロナウイルスが検出され、さらに重症肺炎を発症した人に濃厚接触した人が肺炎にかかり、その症例からも新型コロナウイルスが検出されているのだ。意図的ではないせよコッホの原則に準じた自然実験を、世界中で何度も再現性良く行っているようなものである。

大橋眞氏は自説をYouTubeの動画ではなく論文として発表すべきである。論文として発表する際には上記したような批判を査読者から受け、まともな医学雑誌には掲載されない。


「エイズ否認主義」との類似性


大橋眞氏の説を荒唐無稽と思われたであろうか。確かに荒唐無稽であるが、類似した先行事例がある。「エイズ(後天性免疫不全症候群)の原因はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)ではない」という、「エイズ否認主義」と呼ばれる主張だ*4。確かにHIVが発見されてすぐは、HIVが本当にエイズの原因かどうかについて確定的ではなかったであろう*5。ヒトに対する意図的なHIVの感染実験は倫理的に行うことはできない。しかし、その後の疫学的あるいは分子生物学的研究の進歩もあって、いまやHIVがエイズの原因であることについてまともな医学者の間では議論はない。感染実験の不在を根拠に病原体と病気の関係を疑うのはエイズ否認主義が由来と思われる。

エイズ否認主義は、おそらく、もっとも人を殺したニセ医学である。適切な治療を行えばエイズはコントロールできる病気だ。しかしながら、HIVが原因であると認めず、あるいはエイズ治療薬こそが病気の原因の一つであると誤認したらどうであろうか。そして、一個人が誤認するだけではなく、政治家が誤認してしまったら…。南アフリカ共和国では政府が標準的な科学的意見を受け入れず、HIVがエイズの原因であることや効果的な治療薬を認めなかったせいで2000年から2005年の間だけで33万人以上もの犠牲者が出たという試算がある*6

翻って「新型コロナ否認主義」を考えよう。新型コロナウイルスは常在する病原性の低いウイルスだという誤認がどのような結果を招くか。ことは感染症であるので不利益を被るのは誤認した本人に留まらない。ましてや地方自治体とは言え政治家が公衆衛生学的に害を及ぼす説に親和的であることはきわめて問題だ。

ニセ医学に対して批判的に言及すること自体が、動画の再生やウェブサイトの閲覧を招き、ニセ医学を主張する者に有利に働くというジレンマがある。放置するという選択肢もあったが、新型コロナ否認主義の動画は私が見たときには1万回以上の再生数があり、好意的なコメントもついていた。また、ある言論プラットフォームにゲストオーサーとして大橋眞氏の記事が掲載されていた。すでに新型コロナ否認主義は一定の注目を集めており、対抗言論が必要だと判断した次第である。動画やウェブサイトのURLを提示しているがリンクを張っていないのは、彼らの情報の拡散にできるだけ協力したくないからだ。読者のみなさんにもご配慮をお願いする。


新型コロナ否認主義と他のニセ医学との連鎖


新型コロナ否認主義とエイズ否認主義は外見の類似だけにとどまらない。新型コロナ否認主義の主張者はエイズ否認主義にも親和的である。池田としえ氏は「HIV(エイズ)でノーベル賞を受賞したフランスパスツール研究所のモンタニエでさえ動物の感染実験には未だ成功していない」と述べた。意図的な感染実験なしでも病原体と疾患の関連を十分に示すことができることをHIVの事例は教えてくれるのだが、池田としえ氏はそうした医学的な知見を理解していない。

また、池田としえ氏は、エイズ否認主義の代表的な提唱者であるピーター・デュースバーグの映画を好意的に紹介したことがある*7。これは池田としえ氏が全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会事務局長であることと関係があると思われる。池田としえ氏はHPVワクチンを否定する情報ならどのような怪しいものでも信じる傾向があるようで、「HPV(ヒトパピローマウイルス)は子宮頸がんの原因ではない。つまりHPVワクチンは子宮頸がんの予防には役に立たない」というニセ医学にも好意的である。事実は、HPVは子宮頸がんの原因である。デュースバーグはエイズ否認主義者であると同時に、HPVが子宮頸がんの原因であることも否定しており、HPVワクチンに反対するが現代医学についてよくわかっていない論者によってしばしば紹介されている*8。ニセ医学に頼らなくてもHPVワクチンによる被害を訴えることは可能であるのに、事務局長という立場の人間が怪しい説を信じてしまうのは不幸なことである。

大橋眞氏もまたエイズ否認主義にひじょうに親和性がある。というか、エイズ否認主義ど真ん中だ*9。標準的な医学的知見では、エイズの病原体はHIVであり、効果的な治療法もすでに存在している。信頼できる情報源はいくつかあるが、■公益財団法人 エイズ予防財団 | HIV感染症・エイズについて | HIV/エイズの基礎知識 | HIV/エイズと共にを紹介しておく。大橋眞氏はエイズ否認主義以外のニセ医学にも親和性があり、たとえば輸血利権や輸血の代替手段の研究のタブーの存在をほのめかす*10。輸血否定もニセ医学の定番だ。ちなみに一般的な輸液でどこまで輸血が減らせるかという研究はタブーだと大橋眞氏は主張しているが誤りである。タブーではなく大橋眞氏が知らないだけだ。また、輸血を含む血液製剤は献血といった有限な原料から作られており、「売血ビジネス」どころか医療費節約の観点からも、適正利用が勧められている*11

大橋眞氏は徳島大学名誉教授という肩書があり、専門分野で業績があることも否定しない。しかしながら、専門分野で業績のある科学者・医学者がニセ科学にはまってしまう事例はこれまでいくらでもあった。肩書だけで信用するべきではない。


分断に対する危惧


病気そのものだけではなく自粛に伴う経済的な困窮のほうが苦しいという人もたくさんいる。とくに若い世代ではそういう傾向があるだろう。そのような人たちにとって「新型コロナは存在しない」というニセ医学は魅力的に感じるかもしれない。恐ろしい病気は存在せず、検査薬や薬やワクチンを売りたい製薬会社の陰謀であって、自粛なんて必要ない、自由に過ごしていいというお墨付きを与えてくれるからだ。大橋眞氏の動画の再生数と好意的なコメントの理由の一端もそのあたりにあるのではないか。

少数派だからと無視していれば気づいたときには取返しがつかなくなりうる。エイズ否認主義の教訓を忘れてはいけない。新型コロナウイルス否認主義は、ウイルスの流行を広め、近い将来には有効な薬やワクチンへの反対論をもたらすであろう。また、新型コロナウイルス感染症は、若い世代では重症化しにくいとは言え、重症化しないわけではない。ニセ医学を信じた個人においても不利益をもたらす。

自粛しない、あるいは自粛できない人たちを非難するだけでは効果がないばかりではなく、逆効果かもしれない。自粛による不利益への補償や配慮を今以上に十分に、かつ、できる限り公平に行ってほしい。また、メディアの方々は、新型コロナ否認主義の取り扱いに注意をしていただきたい。アクセス数や発行部数が稼げるからと医学的に不正確な情報を垂れ流すのは、売れるからと腐っているかもしれない食べ物を売るのと同様である。新型コロナ否認主義を好意的に紹介するのはもちろんのこと、両論併記ですら不適切だ。HIVとエイズの関係や輸血の有用性を否定する人物が信用に値するのか、よく考えてみてほしい。


*1:URL:http://www.ikedatoshie.com/20200610.pdf

*2:URL:https://youtu.be/RjI6uCLDbUw

*3:可能性だけを言うなら、新型コロナウイルスとは別に未知の病原性の強いウイルスXが存在し、新型コロナウイルスはウイルスXに付随しているだけという考え方もあるだろう。エイズ否認主義でもそういう主張はあった。しかしその場合、世界中の医学者がウイルスXの存在を、仮説レベルですら、見落としていることになる。また、新型コロナウイルス陰性の重症肺炎症例がもっとたくさん観察されるはずである。なお、「スペイン風邪」がそうだったように、時間が経つにつれてウイルスの病原性が弱まり、あるいは集団免疫がついて、新型コロナウイルスが常在性のコロナウイルスに似るようになるという可能性はあるが、そうなるとしてもまだまだ先の話だし、そのような楽観的なコースをたどるかどうが現時点ではわからない

*4:「HIVとの関連を疑っているだけでエイズという疾患そのものは否認していない」という指摘もあるが、すでに広く受け入れられている用語であることに加え、エイズ否認主義はエイズに関連する標準的な医学的知見のほとんどを否認していることもあって、この用語を使う

*5:この点でも「新型コロナウイルス否認主義」との類似点がある。HIVがエイズの原因ではないかもしれないという主張は、HIV発見直後は合理的な疑いでありえた。しかし、証拠が積みあがった現在はもちろん、あるいは南アフリカ共和国で犠牲者が出た2000年ごろであっても完全にニセ医学である。同様に、武漢でしか流行が確認できていない時期であれば、新型コロナウイルスの病原性についての疑い、たとえば季節性インフルエンザと同程度ではないか、という主張には一定の合理性があったが、現時点では完全に間違っている

*6:https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19186354/

*7:URL:https://twitter.com/toshi2133/status/907343823168139264

*8:たとえばURL:http://archive.vn/wip/dkw6c、URL:http://archive.vn/wip/nMUGe

*9:「結局は今まだそのAIDSに関しても本当の病原体はあるんでしょうか?というレベルなんですよね」「AIDSの薬の治療が必要だということで国際協力のような形で薬が使われると(中略)その薬をつくっているメーカーが大儲けできるという風な仕組みができると、そういう風なことになるわけです」「よくわからない遺伝子を使って病人を作り出すシステムというのはAIDSにあるんじゃないか?という気はします」などと発言している。URL:http://archive.vn/3DjSY

*10:「血液も本当はどこまで輸血が必要かっていうこともほとんど、まだ検討されていない状態で輸血利権みたいなものがあって無料で集めた血液を一本なんですか( ??聞き取れず ) こういう形でね売って収入に分けるということになっているんですよね」「生理食塩水の方が負担が少ないケースの方が結構あるはずなんですよね。それを研究すればね輸血の量ははるかに減らせるはずなんですけれど。少なくとも そういう研究すらされていないですよね。(中略)そこはタブーなんですよ」という発言もある。URL:http://archive.vn/3DjSY『マスコミでは絶対、言えない「新型コロナウィルスの真実」に迫る!タブーの日赤の売血ビジネスも!徳島大学名誉教授で免疫生物学専門の大橋眞(まこと)医学博士へのインタビュー! 文字起こし』より引用。「輸血を全否定しているわけではない」という(ニセ医学擁護によくありがちな)反論が予想できるが、はたしてその擁護が正当なのか、全否定していないからと容認できるような言説なのかどうか、大橋眞氏の輸血に関する発言を聞いてから判断していただきたい

*11:たとえば、■ 「血液製剤の使用指針」(改定版)|厚生労働省。一言でいえば「血液製剤を無駄遣いするな」