NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

血液型の話をすることくらいはいいのか?

ある特定の対立遺伝子Aを持つ人は、将来、癌に罹る可能性が高いとしよう。ある人が遺伝子Aを持っているという理由だけで、就職を断られることがあってもよいだろうか?新入社員を採用する際に、遺伝子Aを持っているかどうかを調べることを義務付けている会社があってもよいだろうか?これは、ほとんどの人が、遺伝子差別であり、許容できないと考えるであろう。では、このような遺伝子差別がある社会において、酒の席で「そういや、お前、遺伝子Aは持っているの?」と尋ねることは許容できるか?「私は差別するつもりは毛頭ない」と断った上でなら、遺伝子Aについての雑談を公的な場で発表することは許容できるであろうか?

エントリーのタイトルを見たら、私が何を言いたいのか、読者の方々はわかっておられると思う。血液型が性格と強い関連を持つとする仮説は既に否定されているが、よしんば血液型と性格に関連があったとしても、血液型について安易な言及はなされるべきではない。血液型は遺伝情報であり、慎重に取り扱うべきである。このエントリーを書くきっかけは、twitterにおける、tatsumatsudaさんという建築家の方の「血液型建築家論」に関するツイートと、それに対する反応を見たことである。以下にまとまっている。


■Togetter - まとめ「血液型建築家論」


おそらくtatsumatsudaさんは、気軽な気持ちで血液型と性格について言及したのだろう(「何人かAB型だという建築家を聞いていますが、天才タイプの方が多いようですね」)。ネットラジオの収録を行ったというツイートがされたあたりから、批判的なコメント(「本気なんですかこれ?本気で言ってるんですか?」「意外と、ナイーブ。高学歴者が多く、オウムに転んだようなものか」)がつく。しかし、tatsumatsudaさんは「ご忠告有り難いのですが、むしろ何故そこまでタブー視する風潮があるのかは、議論の余地はあるかと思います」「個人サイトからも配信できないとすれば、ブログで血液型について書くことも禁じられるということかと」とのこと。結局、「血液型建築家論」は配信された。説明文を引用する。


■建築系ラジオLab. 48A: 血液型建築家論序説


血液型と建築のあいだには何か関係はあるのか?春休みのオープンデスクで集まった学生らの間で、血液型の話題がよく出た。そこで建築に絡ませながら、彼らと血液型について語ってみました。ちょうど4つの血液型すべてが揃ったメンバーでの収録です。不思議なのは、血液型の話はいたるところでされているはずなのに(個人的な経験では学生、社会人を問わず、その話題は特に飲みの席で相当あった)、言説としてはまったく出回らない。このギャップはなにか?今回はたたき台として、多くの反論があることも知りつつ、自由に語るとこうなったという内容を配信してみたい。むしろこれが現状であると。迷信(?)とされる血液型論が建築関係者にも広まっていて大きな問題があるとすれば、この機会にその是非について自覚的に考える人が増えることは、悪くないことだと考えます(2010年3月、松田達建築設計事務所にて)。


なるほど、「むしろこれが現状である」というのはおそらく正しい。「言説としてはまったく出回らない」というのは必ずしも正しくないが、私的な場に比べて、公の場では血液型と性格について言及されない傾向は確かにあるだろう。十分に賢い人は血液型と性格に強い相関が存在しないことを十分に理解しているし、そうでなくても公的な場で血液型と性格について言及することによって自分がどのように評価されるのか理解しているからだと思う。人種差別の話にたとえるとわかりやすいだろうか。いくつかの興味深い例外を除いては、「黒人は遺伝的に知能が低い」という言説は公の場ではほとんど出回らない。たとえ、個人的に「黒人は遺伝的に知能が低い」と信じ、私的な場所では人種と知能について話題にしている人であっても、公的な場では軽々しく話題にしないだろう。人種差別の歴史を知らない人は、「何故そこまでタブー視する風潮があるのか?」と疑問に思い、人種と知能についての雑談をネットで公開しようとして、「本気なんですか?」と突っ込まれるかもしれない。

血液型と性格について話をしたり、言説を発表したりする自由はある。禁止しろとは言わないし、公権力が検閲をするような事態になったら私は反対する。一方で、血液型と性格についての安易な言説は突っ込まれて当然である。批判するほうにも自由はある。「知能が劣る」といったネガティブなことを言わなければいいという問題ではない。たとえば、「AB型は天才タイプ」というポジティブな主張は「A型やB型やO型は天才タイプではない」と言っているのと同じである。あくまで傾向を言っているのであり、断定していなければかまわないか?「AB型は天才タイプである傾向がある」という主張が広く信じられていることで、天才タイプだと思われたくないAB型の人が不利益を被っているかもしれない。血液型による差別は歴然と存在しているのだ。実際のところ、かなり露骨な血液型差別の実例が、かなり早い段階でツイートされていた。





AB型はお断りとする施主のため泣く泣く辞退


「話をすることくらいいいじゃない」「科学的知識も知った上で楽しめばよい」という立場であっても、いや、そういう立場に立ちたいのならなおさら、血液型差別について敏感でなければならない*1。しかし、血液型差別の実例を述べたツイートに対して、tatsumatsudaさんは「コンペで血液型が条件に入ったという例ははじめて聞きました」とコメントしただけであった。迷信とされる血液型論が建築関係者に広まるのがなぜ問題なのか?という問いに対する答えはそこにあったのに。ここまで露骨でなくとも、先入観で性格/血液型を決めつけられて不愉快な思いをする人もいる。「ブラッドタイプハラスメント」という言葉があるくらいだ。

ネットラジオの配信においては、「血液型の話を聞くことを不快だと感じられる方は、内容を聞かれないようにして頂くか、あらかじめその点ご了解の上、ご視聴をお願いできれば幸いです」と、一応の配慮は示されている。では、日常の会話において、同様の配慮はなされていたのだろうか?飲みの席は、個人の遺伝情報についての話をするのにふさわしいだろうか?何故そこまでタブー視する風潮があるのかという問いは不適切である。何故そこまで気軽に遺伝情報について話をする風潮があるのかと問うべきである。


*1:話はずれるが、非存在青少年の規制の話も似ているところがある。「被害者は実在しないのだから、ゾーニングした上で楽しむぶんにはかまわない」という立場に立ちたいのであれば、被害者が実在している児童ポルノの問題について敏感でなければならない