NATROMのブログ

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50年前の「生物と無生物の間」


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ベストセラーの■生物と無生物のあいだ(福岡伸一 著)を読んでみた。前半は著者の留学体験を通して生物学の発展をわかりやすく解説し、後半は「生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである」という生命観を論じている。著者の福岡は、ウイルスを生物とは定義しない。生命を定義づける条件として、自己複製だけは不十分であり、動的平衡こそが本質であるというのだ。動的平衡という言葉を聞くと難しそうに思えるが、たとえ話も用いてうまく解説してある。分子生物学に触れる機会の少ない読者であっても面白く読めたのではないか。ベストセラーになるのもうなずける良書である。だが、今回のエントリーのメインはこの本ではない。私がこの本を読んでいたときに、妻が(おそらく父の本棚から)見つけ出してくれた本である。


「生物と無生物の間―ウイルスの話―」
岩波新書、川喜田愛朗著
昭和31年7月10日 第1刷発行 ¥100.*1


「生物と無生物の間―ウイルスの話―」、岩波新書、川喜田愛朗著。奥付には昭和31年(1956年)とあるから、約50年前の本だ。著者の川喜田は東京大学医学部卒業、専攻は病原微生物学、発行当時は千葉大学医学部教授であるとのこと。副題にあるように、この本のメインはウイルス学の話である。最終章のまとめとして、ウイルスとは何か、ウイルスは生物か無生物かが論じられている。ウイルス学の歴史からはじまり、当時(50年前)の最新の知見についても述べられている。

1956年といえば、DNAの2重らせん構造の発見のわずか3年後であるが、「最近(1953年)ハーシーとチェイスによって行われた実験」*2などを通じ、ウイルスが「遺伝学的な存在」であることは当時既にわかっていた。この実験では、放射性同位体を利用して、バクテリオファージの蛋白部分は菌体の表面に残り、核酸部分は菌体内に注ぎ込まれることが証明された。生物学の教科書には必ず載っている有名な実験である。「菌体内に単独で入った核酸(DNA)の役割もにわかに重きを加えたと言わなければなりますまい」*3。分子生物学の黎明期である。

ウイルスの大きさの推定の話も興味深かった。電子顕微鏡の発明(1930年台)以前に、ウイルスの大きさが複数の方法で推定され、概ね正しい測値が得られていた。一つは、「コロジウムのエーテル・アルコール溶液から溶媒を蒸発させてつくったゲル膜」から作った濾過膜を利用する方法、もう一つは超遠心機でウイルス粒子の大きさによって沈降速度が異なることを利用する方法。「二つの全く異なった方法による測定値はほぼ符合して、お互いにその信頼性を確かめ合ったのでした」*4。「諸種ウイルスの大きさ」という図があるが、現在の推定値とそう大きくは違わない。最大のウイルスが「おうむ病ウイルス」となっていたので調べてみたが、確かにクラミジアはかつてはウイルスとみなされていたそうだ。大きさの単位も、ミリミクロン(mμ)というあまり聞きなれない単位。μm(マイクロメートル)と紛らわしいので現在はつかわれていないらしい*5

このように歴史的な面白さも楽しめたが、一方で、最終章の「ウイルスは生物か無生物か」という問いは現代でも通用する。ウイルスは単に小さいだけで、その振る舞いは細菌と変わらない。しかし一方で、1935年にスタンレーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功すると、ウイルスは無生物のようにも思えてくる。というわけで当然のようにウイルスが生物か無生物か、議論が巻き起こるわけであるが、著者の川喜田は、明瞭な線引きは不能であるという結論に至る。



 試験管内で核蛋白質として取り出されたウイルスはいわば休眠状態のウイルスです。一種の失権状態です。それが生きた細胞の中に侵入して復権しないかぎり、増殖をはじめることがない、増殖こそウイルスをしてウイルスたらしめる属性だとするならば、見方によっては、細胞外のウイルスはウイルスであってウイルスでない、とさえ言えましょう。
 そうみてくると、「ウイルスは生物か無生物か」という問いは実質的にはほとんどその意味を失うと言ってよいのです。強いてとならば、それは、処をうると、言いかえれば適合する細胞に吸いこまれたときには、自主性をもった生物として振舞いうるきわめて高度に組織された物質、とも言えましょうか。もとよりこれは、問いも問いならば答も答という程度のはなはだ不正確な表現です。
(中略)
 生物と無生物の間には、常識が確信しているような一意的な線はどうやらないとみるのが正しいと言わなければならないのです。(P210)


この意見に反対する人はおるまい。しかしそれでも、生物と無生物の間の、より妥当な線はどこに引けるかを考えていきたいものだ。50年後もきっと、考え続けている人がいるだろうな。


*1:アマゾンのマーケットプレイスでも売っている。大体500円前後だけど、一部ありえない値段がついている。もしかして、お宝?

*2:P158、強調は引用者による。この実験の詳細については、■ハーシー・チェイスの実験(アニメーション) が分かりやすい。

*3:P160

*4:P131

*5:■1ミクロンの1000分の1は? -OKWave