NATROMのブログ

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産科医の減少は逆選択の結果か?

少なくとも臨床医の間では、日本の医療制度の将来についての危機感は共有されていると思うのだが、医師の間だけであれこれ言いあっていても建設的ではない。ブログに書くことで、他の業種の方々に少しはこの問題について知ってもらえればうれしく思う。官僚であるbewaadさんのブログのコメント欄に当ブログが紹介されたことをきっかけに、産科医の減少は逆選択の実例かもしれないという推論を発見した。逆選択とは何か、なぜ逆選択で産科医が減少するのかについては、リンク先からの引用を見ていただきたい。


■逆選択の実例?(bewaad institute@kasumigaseki)

あらためて逆選択というものを簡単に振り返るなら、

  • 質にばらつきがあるものが取引されるときに、
  • そのばらつきが取引相手からは判断しづらい(=情報の非対称性が存在する)場合には、
  • 取引相手は市場全体から確率論的に期待できる質に見合った価値評価をするので、
  • それよりも質の高いものを提供できる者は過小評価を嫌い市場から退出し、
  • 質の悪いものだけが市場で選択(=逆選択)されて残る(と平均が下がるので、以下同じことの繰り返しで事態はますます悪化)。

というものです。医療は質にばらつきがありますし、それを患者が見抜くことには困難が伴うでしょうから、まさしく逆選択が起こりやすいサービスと言えます。産科の質が平均として業務上過失致死を疑うべきものであるなら、疑われるのが心外である質の高い医師から廃業するのは、この理屈から言えば必然ということになるわけです。


bewaadさんの推論は、なるほどもっともである。しかし、私の、そしておそらくは医療の現場にいる人たちの感覚からは、「産科医の減少は逆選択の実例である」という推論は間違っていると思われる。bewaadさんの推論では、質の高い医師から分娩を取り扱わなくなっていることになるが、私はまったく逆に、使命感の強い医師が現場に踏みとどまって周産期医療をなんとか支えていると考える。たとえるなら、不正直な中古車販売業者ではなく、戦場で戦友を見捨てることができずに戦い続ける兵士に似ている。(念のために言っておくが、逃げ出した医師の質が低い、根性なしなどとは私は考えていない。ていうか、私も常々逃げ出したいと考えているし)

逆選択ではないなら、なぜ産科医が減少しているのか?bewaadさんは、他の科と比較して産科および小児科に特に医師が不足する理由として、少子化・高齢出産の増加によって子の価値が高くなったことを指摘しているが、これは正しいと思われる。要求される仕事の水準が高くなったのに、報酬が変わらなければ、相対的に報酬が減ったのと同じである。しかし、質の高い医師から辞めていく理由にはならない。

日本の医療で、逆選択が起こらなかった(あるいは起こりにくい)理由について、説明が必要であると思われる。提供される医療の質のばらつきは、皆保険制度のおかげで一般の人が思っているほどではないにせよ、存在するだろう。患者側からみて、医療の質を評価しにくいというのもその通りである。では、質の高いものを提供できる医師は過小評価を嫌い市場から退出するか?退出しないというのが私の答え。その理由は、医師の報酬は取引相手(患者)からもらうものだけではないからである。

単に金銭的な収入という点から考えると、医師の非常勤のアルバイトはたいへんに効率が良い。昨年、偽医者が逮捕されたが、年収が2000万円だと報道された。通常の同年代の勤務医の2〜3倍の年収であろう。私の最近の趣味は、医師転職情報サイトを見ながら、「今の勤務先を辞めて、非常勤のバイトを入れまくったら年収はいくらになるのか」を計算することである。勤務時間が同じなら、確かに収入は2倍くらいにはなる。偽医者が逮捕されたとき、「偽医者でもできる仕事で年収が2000万円とはけしからん。医師は儲けすぎだ!」という意見を散見したが、偽医師でもできる仕事だから収入が多いのだ。まさしく珍業界*1。なぜこうなるかというと、誰でもできる仕事なんかやっても面白くないからである。金銭的な収入のみならず、やりがいとか同僚からの尊敬とか名誉とかスキルアップとか、無形の報酬が医師にとって重要なのだ。質の高い医療を提供すること自体がやりがいになる。収入だけを考えるなら、自由診療でサプリメントを売ったり、点滴バーを経営したりするほうがよっぽど儲かる。だけどそんなのはやりがいゼロだ。

患者-医師間には情報の非対称性はあるが、周囲の医師によって医療の質は評価される。いい加減な医療を行えば、たとえ患者さんには分からなくても、周囲からは「あいつは馬鹿。使えない」と評価される。逆に、難しい症例をうまく診断、治療できれば同僚からの尊敬が得られる。むろん、たくさんいる医師の中には、同僚にどう思われようと定時に帰ることを優先したり、自分のいい加減さが知られないよう画策したりする医師もいるだろう。ただそれはあくまで一部であり、大局的には、医療における情報の非対称性は、非医療従事者が考えるほど強くは働かないのではないか*2

最近になって急に医師不足が顕在化してきたように見える理由の一つに、無形の報酬が減ったことがあると思う。勤務条件・給料がまったく同じA病院とB病院があるとして、治療の甲斐なく患者さんが亡くなったとき、A病院では家族から「よくしていただいてありがとうございました」と感謝され、B病院では「医療ミスがあったのではないか」と疑われる*3。また、脳出血の患者を脳外科のある病院へ転送したとき、A病院では「すばやい対応で助かりました」と言われ、B病院では「脳出血も診れない能力の低い医師だ」と言われる。また、A病院では時間外には本当の急患しか来ず「夜分に申しわけありません」と言われ、B病院では4日前からの微熱で夜の2時に受診し「待たされるのが嫌だから今来た。明日は仕事だから一発で治る注射をしろ」とか言う患者が来る。さて、あなたが医師だとして、どちらの病院で働きたいだろう?私なら少々給料が安くてもA病院で働く。A病院でなら働くが、B病院で働くぐらいなら医師を辞めるという人もいるだろう。

まとめ。

  • 産科医の減少は逆選択の実例ではない。残った産科医は高い使命感を持っている。
  • 医療において、少なくとも日本では情報の非対称性は意外と問題にならないのではないか。
  • 無形の報酬を与えれば、もっと安く医師を働かせることができたのに。

正しいかどうかはわかんないけれども、一医療従事者の意見として参考になれば幸いである。


*1:2ちゃんねるの書き込みより引用。言い過ぎの点もあるが真実の一端を突いている。

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(能力)x (責任)x (年収) = 定数
能力は本人一定として、逃散して責任↓すると年収↑
普通の職ならあり得んが医者ではあてはまる。
また、勝手に年収↓された場合、ついでに何故か責任が↑
普通なら謎な現象だけど、普通に起きる珍業界。
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*2:国民皆保険制度も、情報の非対称性の問題を軽減していることを指摘しておく。イロイロ問題があるにせよ、一応は医学知識を持っている保険者が医療の内容をチェックする。デタラメな医療を行なえば保険者は医療機関へ医療報酬を支払わない。実際、自由診療の医療の質は保証されず、デタラメな医療がまかり通っている。

*3:患者側には、正当な医療が行なわれたか疑う権利がある。それはコストがかかるというだけの話