NATROMのブログ

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愛国心の遺伝子

教育基本法を改正して、子供たちに愛国心を身につけさせたい人たちの中に、ドーキンスもびっくりの主張をしている人がいたよ。


■「今こそ教育基本法の改正を!」 緊急集会を開催

の中の、「愛国心―国家的に物事を考えること」 岡崎久彦(博報堂岡崎研究所所長・本会代表委員)より引用。


国家的にものを考えるというのは、本来これは言う必要がないことなんですね。これは全部我々のDNAに入っているんです。『利己的な遺伝子』という本があるように、遺伝子というのは極めて利己的で、自分だけ生き残るために全部できている。ところが、自分の属するある団体を守ることが自分の生存に意味があるとなってくると、自己を犠牲にしてもその団体を守るという遺伝子が埋め込まれているらしい。それでは、その団体が何であるかという、その単位が問題なんですけれども、結局は人類数千年の歴史では国家しかないんです。それは一人一人に聞いて見れば分かることで、「おまえ、何のために死ねるか」と。「東京都のために死ねるか」と言っても、おそらく死ねる人はいないですよね。地球人類のために死ねるかというと、口先だけそういうことを言っている人はいるけれども、命を賭けてないですね。やっぱり単位は国であって、これは放っておけば自ずから出てくるものです。ただそれを今までの偏向教育で抑えこんでいた。ですから、教育基本法に「国家的にものを考えること」「国を愛すること」ということを書けば、日本人というのは遵法精神がありますから、自ずから解決するんじゃないかと思います。

国家的にものを考えることは、我々のDNAに入っているんだそうだ。しかもその根拠が「利己的な遺伝子」ときたもんだ。本当に岡崎氏は「利己的な遺伝子」を読んだのだろうか。竹内久美子しか読んでいないということはいかにもありそうだが、読んだとしても理解はしていない。仮に「自己を犠牲にしてもその団体を守るという遺伝子」が存在するとして、自己を犠牲にして守られるべき団体の単位が「国家」だなどということはありえない。「人類数千年の歴史」って、そんな短期間では進化は起こりませんがな。岡崎氏は進化が起こるタイムスケールをまったくご存知でない。ヒトが進化した数百万年の歴史のほとんどの期間において「国家」など存在しなかった。

集団が比較的小さく、集団のメンバーが血縁関係にあれば、「集団を守る遺伝子」は有利になりうる。要するに、血縁淘汰である。集団が大きくなれば、フリーライダー、つまり自己犠牲は行なわず守られることによって利益だけ得る利己的な個体が有利になる*1。集団のサイズは家族か、せいぜい「一族」ぐらいまでだろう。むろん、「国家」のために自己犠牲を行なう行動は実際に存在する。「利己的な遺伝子」の著者であるドーキンスは、こうした行動を遺伝子ではなく、ミームによって説明する。


どんな対象であれ信仰は人々を強く帰依させ、極端な場合にはそのためにそれ以上の正当化の必要なしに人を殺し、自らも死ぬ覚悟をさせてしまうのだ。「ミームに取りつかれて自分の生存も危うくするにいたった犠牲者」を呼ぶのにキース・ヘンソンは「ミーメオイド」という新語を作った。「ベルファストやベイルート発の夕方のニュースにはそのような人々がたくさん登場する」。信仰はきわめて強力で、同情や、寛大さや、上品な人間的な感情へのあらゆる訴えかけにも人々は動じなくなる。「利己的な遺伝子 増補新装版」(P506)

「日本のために死ねる」と堅く信じる人は、「ミームに取りつかれて自分の生存も危うくするにいたった犠牲者」すなわちミーメオイドである。教育によってミーメオイドをつくることはできるだろうが、ドーキンスはそうした自らの生命を軽視させる教育に批判的である。国を愛することはまことに結構であるが、「命を賭ける」のはやりすぎである。いったいどちらが偏向教育なのだ。

教育改革をするならば、自分のよく知らない分野について知ったかぶりをするような大人が少しでも減るように改革していただきたい。ちなみに岡崎久彦氏の自然科学に対する理解については、どうも「竹内久美子を読みかじってちょっと知ったかぶりしちゃったエヘヘ」というレベルではないようだ。「なぜ気功は効くのか」や、船井幸雄と組んで「気の力」という本を書いている。岡崎氏がどういう本を書こうと自由であるが、そういう人に利己的な遺伝子を語ってほしくない。


*1:自分は犠牲になるつもりはないくせに、やたらと集団のための自己犠牲を賛美して、他の個体に自己犠牲を強いるような利己的な個体はさぞや成功するであろう(皮肉)。