NATROMのブログ

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エピジェネティクスと獲得形質遺伝

進化論と創造論の掲示板で、ちょっと前に獲得形質遺伝のことが話題になった。たとえば、「ストレス環境下では、母親が分泌したストレスホルモンが胎児に影響して、ストレスに強い子が生まれるってこともあるのでは?」という疑問。で、「そういう現象が起こったとして、孫に伝わらないと獲得形質の遺伝とは言えない。また、獲得形質遺伝があったとしても、限定されたものであって、適応的複雑さは説明できない」とか答えたはず。私は保守的で体制派でドーキンス聖職者協会の人間だから、獲得形質遺伝にはきわめて懐疑的なのだ。

ただ、まったくありえないと言っているわけではなく、限定された形での獲得形質遺伝はありうると思っている。たとえば、エピジェネティクス「DNAの塩基配列の変化を伴わずに起こる、遺伝子発現における遺伝的変化」という現象がある。DNAがメチル化されると遺伝子の転写が抑制されるんだけど、普段使わない遺伝子はメチル化しておいて、いざ環境が変化したときに脱メチル化させ、その脱メチル化が遺伝するのであれば、見た目、獲得形質が遺伝したように見える。もちろんこれは、「限定された形」であって、「適応的複雑さは説明できない」であるのには変わりないんだけど、もしそういう現象があったら興味深いよね。で、Nature Japanに興味深い記事を発見したので紹介。登録しないと読めない。元記事はLoving mothers ease stress through epigenetics, Nature Reviews Neuroscience 5, 598 (2004);

■母親の深い愛情を受けて育った子供はエピジェネティクスによってストレスに強くなる


ストレスを受けると、視床下部−下垂体−副腎(HPA)軸が活性化し、血漿中のグルココルチコイド濃度が上昇する。グルココルチコイドは、負のフィードバックループによってHPA応答を鈍化させる。生後1週間目に母親が十分に世話をしたラットが成獣になった時、海馬におけるグルココルチコイド受容体(GR)の発現レベルは相対的に高く、グルココルチコイドの負のフィードバックループに対するHPA軸全体の感受性も相対的に高くなっていた。母親による世話を受けるとGRの発現レベルが大きく上昇するメカニズムについては、これまでに複数の仮説が提唱されていた。しかし、この効果がラットの一生の間持続する過程については解明されていなかった。
遺伝子の転写調節は極めて複雑な過程であるが、DNAメチル化は、こうした過程に関与するメカニズムの1つだ。Weaver et al.の研究では、母親ラットに十分に世話されて成長したラットと母親の世話をあまり受けなかったラットにおけるGRプロモーターのメチル化を比較した。「十分な世話を受けた」グループの場合、転写因子NGFI-Aの結合部位にあるシトシンのメチル化のレベルは、「あまり世話を受けていない」グループよりも90%低かった。このシトシンは、十分に仔の世話をする母親の場合もあまり世話をしない母親の場合も生まれたての仔においては高度にメチル化されているが、母親の十分な世話を受けた仔(この母親の仔でないケースも含む)の場合には、生後6日以内にメチル化のレベルは低下し、その後も低いレベルが続いた。また、メチル化レベルの低下とNGFI-AとGRプロモーターとの結合の増加とが相関していた。NGFI-AとGRプロモーターとの結合が増えるとGRの転写が増えることが予想される。

そのあと、「あまり世話を受けていない」ラットに、DNAメチル化を抑制させる薬剤(トリコスタチンA)を使用し、グルココルチコイド受容体(GR)の発現量が増加したことまで確認している。この例は個体発生の例だから、獲得形質の遺伝とは言えない。子孫に伝わらないのにエピジェネティクスと呼んでいいのかとも思ったけど、「娘細胞に伝達される遺伝子機能の変化」もエピジェネティクスに含めるようなのだ。哺乳類の場合は、DNAメチル化による獲得形質遺伝の可能性はきわめて低いと思われるが、上記引用した事例を見るに、「限定された形」であっても獲得形質の遺伝はあるかもしれないと思うよね。単細胞生物だったら、アリアリだと思うのだ。