NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

グールドも蔑まれた

■「勉強ができる」という蔑称(理系兼業主婦日記)を読んで思い出したのが、スティーヴン・ジェイ・グールド(優れた科学エッセイを書いたことでも有名な進化生物学者)の「恐竜の効用」というエッセイ。ちなみに、グールドはアメリカ人でニューヨーク育ち。「頭のいい」子供が苦労するのは、日本だけではないようで。


■がんばれカミナリ竜〈上〉(早川書房) スティーヴン・ジェイ グールド (著)


子どもの文化は無残で、すさまじく反知性的になることがある。私が生き残れたのは、悪口の対象となっても絶望せず、ベースボールに関する知識でいくぶんかの尊敬を勝ちとったからである。しかし、科学に知的情熱を燃やす子どもは、うすのろとか、かたぶつとか、まぬけとか、とんまとか、奇人変人にされてしまう(どんな言葉がそのときよく使われていたか覚えていないが、残酷で独特の呼び方の一つがいつも流行っていた)。私は多くのクラスメイトから、変わり者とあざけりを受け、運動場では「化石顔」と呼ばれた。それにはさすがに傷ついた。(P125)


グールドを「化石顔」って呼ぶとは、うまいこと言うとなんとなく思ってしまうけど、子供のころに言われたら傷つくわな。このエッセイの主題は、アメリカの科学教育を改善するのに、恐竜の人気を利用できないか、というものである。グールドは「科学は未成年に教えるには難しすぎるのだ」という意見を有害で馬鹿げた意見だとみなす。実際、他の国では科学教育は成果を挙げているではないか。教育に金をかけよう。子どもたちの恐竜に対する関心から、科学への興味を教えよう。そして、子ども社会での同調圧力によって科学への興味を失うような子どもが出ないようにしよう。



驚異の念を打ち消してでも服従を要求するような圧力を仲間から受けることほど悲しいことはない。これまでに数え切れないアメリカ人が歌うよろこびを奪われてきた。学校の集まりで、「調子はずれ」という理由で、歌わずにただ口をパクパクしておくようにと命ずるような思慮に欠ける教師がいたためである。ひとたびそう言われてしまうと、二度目は恥ずかしくなり、その後は歌うのが怖くなってしまう。同様に、いばりちらすばかりで思慮のないくだらぬ生徒が運動場でまぬけよばわりしたばっかりに、数え切れない人たちが知的おどろきの輝きをなくしてしまった。こうした子どもじみた残酷な仕打ちを受けても、めげてしまうことなく自分の目的を成し遂げるようながまん強い子ども―私もその一人だった―をはやしたててはいけない。そういう思慮のない子ども一人につき100人はだめになってゆく。ただ少しばかり臆病で怖がりだったために、能力的には変わらない子どもたちが。われわれはこうして輝きが失われてゆくことに対して、断固として怒りを向けるべきなのだ。(中略)
『ニューヨーク・タイムズ』は、韓国の科学教育についての記事で九歳の少女にインタビューしたときの様子を伝えている。きみにとって英雄ってだれかな、と尋ねると、その少女は「スティーヴン・ホーキング」と答えたというのだ。信じてほしい。私はNBAのスーパースター、ラリー・バードやマイケル・ジョーダンに対して含むところなどなにもないが、1万人のうち一人でもよいから、アメリカの子どもがこのような答えをしてくれたら、すばらしいことではないか。このような科学の天才は韓国の学校ではクラスのヒーローであり、いやなやつだと敬遠されたりしない、と記事はつづけて伝えている。(P135-136)


私の中学生時代の英雄はコンラート・ローレンツとデイビット・アッテンボローだった。別にそれでいじめられるということはなかったが、彼らの名を知っているクラスメイトは皆無だった。不良達とは敵対していたが、私は漫画とゲームとパソコンという趣味でつながる友人たちがおり、図書室にたむろすることで阿呆なヤンキーどもと距離がおけた。奴らは本のたくさんあるところには近寄らないという習性がある。ただ、学校の成績が良いこと=「要領がよくて小狡いやつ」という偏見、あるいは、「勉強ができる」ということが蔑みの対象になるような風土は感じた。「いばりちらすばかりで思慮のないくだらぬ生徒」は確かにいた。私に友人や図書室という逃げ場があったのはたまたまの幸運であって、不幸にも逃げ場がなかった人たちは大変だっただろう。