NATROMのブログ

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「喫煙率が下がると肺がん死が増える」のはなぜか?

武田邦彦氏が、「どうも何かを間違っているような気がします」という保留付きながら、「タバコを吸わない人に対して、タバコを吸うと肺がんの死亡率は10倍以上減る」という推論をしていました。


■武田邦彦 (中部大学): 奇っ怪な結果?? タバコを吸うと肺がんが減る?!


でも、なにか釈然としなかったので、1955年頃から1985年頃までの統計的データから、「タバコを吸うと何倍ぐらい肺がん(気管、気管支を含む)になりやすいのか?」という計算をしてみました。基礎となるデータは厚労省やがんセンターなどから出ている男性のものを使い(下の図。データ自体は誰も異議がないと思います)、次の前提を起きました。

1) タバコの害は継続的に20年ぐらい吸った人が、さらに20年ぐらい後に肺がんになる(そのために1985年以後の喫煙率のデータは使えません。1985年の20年後は2005年になり、それ以後はデータがまだ無いからです)、

2) ガンは年齢と共に増えるので、粗死亡率(その年に肺がんで死んだ人の数)ではなく、それを年齢調整した死亡率をとる。

この結果からデータ処理(連立方程式を解く方法)をしてみると、実に驚くべきことが判ります。それは「タバコを吸わない人に対して、タバコを吸うと肺がんの死亡率は10倍以上減る」(増えるのではなく、減る)のです。

ここで「驚くべきこと」と言いましたが、実は計算する前から判っていることです。つまり、このグラフを一見すると「喫煙率が下がると、(年齢調整)肺がん死が増える」という結果になっているからです。


「タバコをすると肺がんが格段に減る」という真逆の結果が得られたのでしょうか? タバコを吸う人は呼吸器系の病気が増えるので肺がんにもなりやすいという推定はできます。でも、科学はあらゆる面から見て事実を説明しようとする努力であり、先入観や利害で結論を出してはいけません。


武田氏は明示していませんが、喫煙者率と死亡率のグラフは、JT(日本たばこ産業株式会社)による、「たばこ対策に関する日本たばこ産業株式会社の考え方等」*1からの引用でしょう。確かに、喫煙率が減るにつれて、肺がんによる死亡率が上がっているように見えますね。ごくごく単純に考えれば、武田氏の言うように、タバコを吸わないことがかえって肺がんの危険を高めていると結論したくなります。

時系列研究は因果関係の推定には向いていない

しかし、いろんな可能性を考えてみましょう。もしかしたら喫煙以外の要因、たとえば大気汚染が酷くなった結果、肺がんによる死亡率が上がったのかもしれません。年代によって喫煙率や死亡率がどのように変化するかを見た研究を「時系列研究」と言います。時系列研究では時間とともに変化するさまざまな要因(大気汚染などの他のリスク要因、診断技術や治療技術の進歩など)の影響を取り除くことが困難なので、直接的な因果関係の推定には向いていません。

もっと確実に因果関係を推定したい場合はコホート研究を行います。喫煙と肺がんの関係を調べたければ、喫煙者の集団と非喫煙者の集団を長期間追跡して(この集団のことをコホートと呼びます)、その集団の中から肺がんの発症や死亡がどれくらい生じるかを観察します。コホート研究でも一定の偏りが生じることもありますが(質の良いコホート研究は偏りをできる限り取り除いています。その方法については成書を参考にしてください)、少なくとも時系列研究に見られるような時代の変化による影響は生じません。

そもそも「喫煙率が下がると肺がん死が増える」という推定が誤り

喫煙と肺がんの因果関係については、複数の質の良いコホート研究で証明されています。もし、時系列研究とコホート研究での結果が相互に合致しなければ、コホート研究の結果を採用するべきです。しかし、武田氏の推論とは異なり、喫煙と肺がんの関係において時系列研究とコホート研究での結果は一致しています。喫煙と肺がんの発症もしくは死亡にはタイムラグがあります。たとえば、喫煙をはじめた1ヶ月後に肺がんと診断されたとしても、まともな医師は喫煙が肺がんの原因だとは考えません。

喫煙と肺がんのタイムラグはおよそ20〜30年程度とされています。そうだとしたら、喫煙者率のピークから20〜30年後に肺がんがピークになるはずです。まさしく、武田氏が「喫煙率が下がると肺がん死が増える」と根拠して引用したグラフから、喫煙者率のピークから約30年のタイムラグを経て年齢調整後の肺がん死亡率が減っていることが示されています。日本禁煙学会が作成した図がわかりやすいので引用します。




「喫煙率の増減と肺ガン死亡率の増減の間には、30年ほどのずれ(タイムラグ)がある」

■国民と政府にウソをついて喫煙対策を妨害するJTに抗議する 日本禁煙学会)より引用。

喫煙と肺がんが無関係、あるいは、むしろ喫煙は肺がんのリスクを下げると言いたいのであれば、時系列研究を持ち出すべきではありません。時系列研究は、喫煙は肺がんのリスクであり、日本人男性集団において肺がんの主な原因であったことと矛盾しません。

時系列研究を持ち出して喫煙と肺がんの関係を疑念を呈するやり方は使い古されている

武田氏がやったように、時系列研究を十分に理解できず、あたかも喫煙と肺がんの因果関係に不利な証拠として持ち出す論法は昔からありました。よって、そうした誤った論法に対する反論もたくさんあります。FAQと言っていいと思います。ここでいくつかご紹介します。


■国民と政府にウソをついて喫煙対策を妨害するJTに抗議する 日本禁煙学会
■メディアリテラシーの練習問題;室井尚の奇妙な反・嫌煙運動プロパガンダ論 山形浩生
■喫煙率と肺がん死亡 - mobanama69号
■アスベストの有害性は疑わなくていいの? - NATROMの日記


武田氏は以下のように書いています。


厚労省から研究費がでるようになって「タバコを吸ったら」、「野菜を食べたら」・・・という類の研究が盛んで、多くの結果が得られています。でもその研究の多くはきわめて一面的で、他の結果との整合性を検討せず、調査した学者の最初の思い込みだけが結果に出ているように思えます。

このブログを読んでいる読者のみなさんが見て、ある分野の研究者たちが「他の結果との整合性を検討せず思い込みだけで結果を出している」ように思えたとしましょう。その場合、「科学はあらゆる面から見て事実を説明しようとする努力であり、先入観や利害で結論を出してはいけません」などと書く前に、その分野について勉強してみることをお勧めします。原著論文を読みこなすレベルまで到達するのは難しいでしょう。基本的な教科書を読むというのもたいへんだという人もいるでしょう。新書レベルの本を読んでもらえればいいですが、それすら無理という人もいるかもしれません。その場合は、せめて、ネットを検索してみて、自分の思ったことぐらいはとっくに誰かが考えついていて、既に反論されているという可能性について検証してみてください。


*1:URL:http://www.jti.co.jp/news/opinion/pdf/20060302/material.pdf