NATROMのブログ

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アスベストの有害性は疑わなくていいの?

喫煙の有害性はもはや確立された事実と言っていいのだが、それでも喫煙の有害性に対して懐疑的な人がいる*1。喫煙の有害性は、主に疫学的手法で証明された。なので、タバコの害を疑う人は疫学的手法そのものに対して懐疑的なのかと思いきや、必ずしもそうでもないらしい。たとえば、養老孟司は、「たばこの害は証明なんて言うのもおこがましい状態」と言いつつ、日本女性の寿命が延びた理由を水道の塩素消毒であることは認めている*2。どちらも疫学的手法で証明されたことなのに。「偏り、交絡、偶然性など」の疫学の限界を指摘する人もいる*3が、喫煙の害ほど複数の集団で繰り返して綿密に証明されたものはほとんどないわけで、だったら喫煙以外の疫学の成果についても懐疑的になるべきであろう。

喫煙以外の疫学の成果として、たとえば、アスベストと悪性中皮腫の関係がある。私の知る限りにおいて、喫煙の有害性に対して懐疑的な人でも、アスベストが悪性中皮腫の原因であることを否定している人はいない。たぶん、アスベストおよび喫煙について、それぞれの疫学研究の論文を読みこんで、「アスベストについての疫学研究は信頼できるが喫煙についての疫学研究は信頼できない」と判断したわけではないだろうと思う。喫煙の害を否定するために持ち出される論法はいくつかあるが、今回はその中でもポピュラーなものである、「日本人男性の喫煙率は下がったのに肺癌死亡者が増えたのは矛盾である」という論法を、アスベストに当てはめてみよう。■武田邦彦 (中部大学): タバコを考える パート7 データの真実を参考にした。



――――――アスベストを考える データの真実――――――
アスベストに暴露した人は肺の疾患、特に悪性中皮腫になりやすいと言われている。そこで、一つのグラフを提示したい。




このグラフは日本のアスベストの輸入量と中皮腫患者の変化を示している。アスベストの輸入量は1970年から1990年にかけて多く、1990年以降はどんどん減少している。一方で中皮腫患者は1996年の約500人から2004年の900人超へと、約2倍となっている。アスベストの輸入量と暴露量は必ずしも一致するとは限らないが、それでもこれだけアスベストの規制が進んだ現在、暴露量が減ったのは間違いない。このグラフで、まずは次のことが思い浮かぶ。


1) アスベストの輸入量が減っているのに、中皮腫は増えている、
2) おそらくは中皮腫になるかならないかは、アスベスト以外の別のなにかが原因しているのだろう。


「アスベストに暴露すると中皮腫になる」
「事実は、 アスベストの輸入量が減ったのに、中皮腫が増えている」
という2つの「事実」は少なくとも見かけは矛盾して見える。
これにさらに、
「現代の日本人の生活で、もっとも中皮腫の危険性の高いのはアスベストに暴露することだ。だからこそ、政府も「アスベスト排斥運動」をしているのだ。」
というのを加えると、矛盾は拡大する。
「国民の健康を守り、悪性中皮腫を撲滅するには、アスベスト暴露を減らすことが第一だ」
とすると、アスベストを規制したのに、何の役にもたたなかったのか?!

実は、私はすでにアスベスト暴露と中皮腫の発症率との関係についても調査をしてみたが、もちろんアスベストに暴露している人の方が中皮腫の発生率は高いことは知っている。
でも、個別の調査と全体の傾向が異なるときには、自分の先入観をいったん、疑ってかかるのが科学的態度である。先は急がない。また自分の先入観を人に押しつけようともしない。相手がデータで納得するように最後までしっかりやりたい。

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アスベストの暴露量を直接測定するのは困難であるが、輸入量がある程度の目安になることには、ほとんどの人に同意していただけるものと思う。中皮腫患者数についても、年齢補正が必要だし、診断技術の進歩の影響も受けるが、それでもやはり中皮腫が増加傾向にあることは確かであろう。では、アスベストに暴露している人の方が中皮腫の発生率が高いという個別の調査と、アスベストへの暴露量が減ってきたのに中皮腫患者が増加したという全体の傾向は、果たして矛盾しているのだろうか?アスベストの規制は役に立たなかったのであろうか?さて、ここで、もう一つグラフを提示したい。先ほど提示したのとほとんど同じグラフであるが、違うのは、患者数の予測も含んでいることだ。





石綿(アスベスト)の消費と中皮腫死亡数のピークが40〜50年ほどずれている。アスベストへの暴露と中皮腫の発症にはタイムラグがある。タイムラグの存在は、全体の傾向からではなく、個別の調査から判明したことである。だからこそ、「中皮腫死亡数のピークは40〜50年ほどずれるであろう」と予測されているのだ。アスベストの消費が減っても中皮腫が増えていることは矛盾でもなんでもなくて、個別の調査から十分に想定されていることである。むしろ、アスベストを規制したとたんに中皮腫が減少したりすれば、そのときこそ個別の調査と全体の傾向が異なると言える。

喫煙と肺癌の発症にもタイムラグがある。アスベストと中皮腫ほど長くはなく、20〜30年と言われている。日本では男性の喫煙率のピークが1965年ごろ、成人1人当たりの年間タバコ消費量のピークが1975年頃、男性の肺癌の年齢調整死亡率は1990年台の半ばほどがピークである*4個別の調査全体の傾向は一致している。少なくとも矛盾はしていない。ここで注意すべきは、全体の傾向が一致していること自体は、喫煙と肺癌の関係についての強い証拠にはならない点である。たまたま偶然に傾向が一致しているだけかもしれないからだ*5。しかし、日本だけでなく、アメリカ合衆国でも同様の傾向が見られることより、全体の傾向を喫煙が肺癌の原因であるとする傍証の一つとしてよいだろう*6。それでも喫煙と肺癌の関係を疑うのは個人の自由だろうが、アスベスト暴露と中皮腫の関係も疑わないとダブルスタンダードである。

過度の嫌煙運動は、権力によるライフスタイルの強制になりかねない。「喫煙はリスクを承知の上での個人の選択である」と主張すれば、非喫煙者でも共感する人はいるであろう。嫌煙運動に反対するのは、リスクを正しく評価してからのほうがいいと私は考える。


*1:喫煙の害がゼロだと主張する人だけではなく、ちまたで言われているほど喫煙の害は大きくないと主張する人も含む

*2:■養老孟司の禁煙原理主義批判批判

*3:URL:http://twitter.com/uzukit/status/11992468292

*4:■保健管理センターだより29■喫煙率と肺がん死亡 - mobanama69号

*5:逆のことも言える。全体の傾向が予測より外れたとしても、それだけでは「タバコを吸って致命的な肺がんになりやすいという話は事実とは違う」ことにはならない。タバコ以外の肺癌に寄与する環境因子が変化したかもしれないからだ

*6:■Muroi's Wierd Pro-Smoking argument