NATROMのブログ

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DNAから見た日本人

実家に「日本人はどこからきたか 新・日本人起源論の試み」(埴原和郎編、小学館)という本がある。父が買ったのであろう。1984年初版であるから、ざっと20年前だ。言語学や骨学に関する章と並んで、「集団遺伝学からみた日本人」という尾本恵市による章があり、日本人集団の特徴を遺伝子頻度を用いて論じている。大雑把に言えばこんな感じだ。集団α、集団β、集団γがあるとして、それぞれのABO式血液型におけるO型の人の頻度*1が、80%、70%、10%だったとしよう。この3つの集団においては、集団αと集団βが遺伝的に近いと推定できる。つまり共通祖先の集団からまず集団γが分かれ、そのあとに集団αと集団βが分かれたと推定できる。

この例ではABO式血液型のみを使ったが、実際には一つの遺伝子座だけだと誤差が生じるため、なるべく多くの遺伝子座を使用する。20年前であるから当然のことながら、遺伝的多型を検出するのに蛋白質を使っている。さまざまな種類の蛋白質について遺伝的多型が知られているが、DNAそのものの多型と比較すれば圧倒的に少ない。大量に発現している遺伝子でないと蛋白質による多型は検出できない。アミノ酸の違いがあっても必ず電気泳動で検出できるとは限らない。アミノ酸の変化を起こさない突然変異(同義置換)だと蛋白質レベルでは原理的に検出できない。同義置換は遺伝的に中立であるので、集団間の比較をするときには都合がよいのだが。現在では蛋白質レベルの遺伝的多型よりも、遺伝子、すなわちDNAの多型が使われることが多い。DNAを増幅する技術もあるから、サンプルも少数で済む。最新の集団遺伝学による日本人の起源についての本には、タイトルに「DNA」が入っている。


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■DNAから見た日本人 斎藤 成也 (著) ちくま新書

DNAを使用しても、基本的な考え方は変わらず、複数の遺伝子座における遺伝子頻度の情報から集団間の遺伝的距離を推定する。本書ではさまざまなデータを用いて日本人集団の系統を論じている。扱える情報量が増えてより明確に日本人の起源についてわかってきたのかというと、どうもそうではないようだ。集団の系統と言っても、完全に隔離された集団などあろうはずもなく、多かれ少なかれ混血や遺伝子の流入があるので、よく考えれば当然のことであろう。遺伝学的には「純粋な日本人集団」というものは存在しない*2

冒頭で紹介した「日本人はどこからきたか」の編者である埴原和郎は、本書においても「二重構造説」の提唱者として名前が出てくる。二重構造説とは、日本人の起源を、古いタイプのアジア人集団の子孫である「縄文系」と、弥生時代に北東アジアから移住してきた「渡来系」の二つに考える説である。もともと縄文系がいた日本列島に渡来系が北部九州や本州の日本海側から移住し混血が進んだが、本州から離れたアイヌ人と沖縄の人は縄文系の特徴をより強く残しているという。形態的にもアイヌ人と沖縄の人は似通っている。

二重構造説の正否など、多数の遺伝子を調べればわかるようにも思えるが、混血を考慮に入れると一概に言えないらしい。実際、集団間の遺伝的距離は、アイヌ人−沖縄人よりも、本土人−沖縄人のほうが近い。二重構造説が正しいなら、アイヌ人−沖縄人の距離が近いはずだ。しかし、基本的は二重構造説が正しくて、九州からの移住によって本土人に遺伝的距離が近くなったとも解釈できる。HLAのデータは二重構造説を部分的にだが支持している。というのも、いくつかのHLAハプロタイプの頻度はアイヌ人と沖縄人の二集団で似通っており、低い頻度ながらもこの二集団にのみ存在し、本土日本人では見られないHLAハプロタイプもある。かなりややこしい。

DNAによらない研究も紹介してある。面白かったのが苗字を使った研究だ。日本では一般的には、子は父親の苗字を継承する。苗字は、Y染色体と似たような動きを示すはずだ。著者の斎藤は博士課程のときに国会図書館で全国の電話帳を調べ、苗字の地理的分布から都市間の近縁関係を計算した。日本人の起源とまではいかないが、近年の人の移動は苗字から推定できる。

他に、骨学や言語学についても、それぞれ一章を割いている。骨の形態は環境要因の影響を受けるので、誤った系統推定をしてしまう恐れがある。それでも環境の影響を受けにくい形質を選んで利用することができる。言語も、遺伝子以上に混ざってしまう可能性があるが、言語比較によって遺伝子からわからない情報を得ることができるかもしれない。ルーツを探る研究には興味がつきない。

*1:実際には表現型の頻度ではなく、遺伝子頻度を使う

*2:嫌韓系の人などにこうした「純粋な日本人」観を持つ人がいるように思う。余計なことかもしれないが、遺伝学的な集団間の系統推定の話をするだけで、民族主義的な話と誤解されるかもしれないから、「純粋な日本人集団」が存在すると主張しているわけでないことを念のために確認しているのだ