NATROMのブログ

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進化論を信仰の光に照らして分析

私は4年くらい前から、進化論と創造論というサイトをやっている。日本でこそ、非宗教的な進化論否定が多いのだが、それでも元ネタをたどっていくと、たいていの場合聖書を信仰するグループにいきつく。聖書を文字通りに解釈すると、進化などウソッパチで創造論が正しいということになり、信仰を貫き通すためには進化論を否定するということになる。否定するだけならいいのだが、しばしば否定の段階でウソや間違いが入り込むので、ツッコミが成立する。

ただ、すべてのキリスト教徒が進化論に反対している、というわけではない。クリスチャンの科学者だってたくさんいるのだ。彼らは別に信仰心が足らないわけではない。ただ、聖書を文字通りに解釈していない、というだけだ。「文字通りに解釈していない」という言い方は語弊がある。聖書には複数の解釈の仕方があって、進化論を否定しない解釈を採用しているというだけなのだ。「聖書は文字通りに解釈しなければならない」という批判はありうるが、進化論を否定する根本主義的なキリスト教徒だって、場合によっては聖書を文字通りではなく比喩的に解釈する。「ヘビがカエルやネズミを食べるというのは間違いで、本当は塵を食べるのだ」という主張を私は見たことがない。「塵を食べる」という言葉は、通常は比喩的に解釈されている。

たいていの日本人は、進化が起こったことが科学的事実であることに同意するだろうし、聖書の解釈なぞどうでもよいだろう。ただ、国際的にはキリスト教は多数派を占める宗教であるし、アメリカ合衆国では特にキリスト教根本主義者の影響力が強い。キリスト教の宗派によって聖書の解釈が異なりうることを知っておいても損はない。たとえば、業界最大手のカトリックは、進化論に別に反対していない。

■バチカンが新文書で分析カトリック新聞社ホームページ


 第1に、文書は進化論科学で有力な定説の可能性を認めている。宇宙は150億年前の「ビッグバン」で突発的に出現し、地球上のすべての有機生命体は最初の有機体に由来し、人類はおよそ4万年前に、より大きな発達した脳を得たことにより出現したとする考え方だ。
 第2に、文書は進化の特定の過程における「神の計画」について議論していない。何人かの専門家たちが、生物学上の構造に摂理的な意図を認めていることに触れつつも、そのような発達は「偶発的」だったか、偶然に依存していたかもしれないとしている。
 「創造の秩序に見られる真の偶発性は、意味深い神の摂理と矛盾するものではない」と文書は指摘している。
 言い換えれば、神の計画は、あらゆる種類の変異を許してきたのかもしれない。または、文書が言うように、「いかなる偶発的な進化のメカニズムも、神がそうさせているからこそ偶発的であり得るのかもしれない」。

ちなみに1996年の段階ではこんな感じ。

■ローマ教皇、「進化論」認める=ただし人間の精神は神の創造物=

こうした主張は、進化論を強固に否定するキリスト教根本主義者からは、もはやキリスト教とは言えないと見えるようだ。進化論や地球の年齢を巡る議論は、キリスト教徒の間でも行われている。一方、科学者の間では、進化のメカニズムに関する議論はあるものの、進化が起こったかどうかについての議論はもはやない。アメリカ合衆国で、教育の場で進化論を教えるかどうかについて議論が起こっているが、自然科学上のものではなく、政治的・宗教的なものである。