NATROMのブログ

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がん細胞を正常細胞に戻す

赤血球からできたガン細胞?

千島学説によれば、体細胞は赤血球に由来するとされるが、通常の科学の体系では、ヒトの赤血球は核を失っており、他の細胞に分化はしないとされる。赤血球が体細胞に分化するとして、ゲノムDNAがどこから湧き出てくるか、千島学説では説明されていない。そういうわけで、現在、千島学説の支持者は、高校レベルの生物学すら理解できないレベルの者に限られる。さて、千島学説支持者によれば、1975年に、読売新聞が千島学説を支持する記事を載せたとのことである。


■実質的に「千島学説」を認めながら…(Creative Space TOPICS)*1


 この読売記事によれば、「ガン発生のメカニズムが解明された」とあり、そこにははっきりと「赤血球からできたガン細胞が、再び正常な赤血球に戻ることを発見した」と書かれている。
 つまりこの記事が意味するのは、ガンは血液から生じて血液に戻ると提唱した「千島学説」を、癌研究会癌研究所と京大ウイルス研究所、さらに国立がんセンターという権威のあるの3つの機関が、それぞれに顕微鏡観察をもってはっきりと裏付けてくれたということだ。
 しかも、これらが「完全治癒への希望」を開いたこともあって、この画期的発見をした5人は、高松宮妃癌研究基金学術賞を受けることになった。少なくてもこの時点では、千島博士が言う「赤血球分化説」と「血球の可逆的分化説」が高く評価され、その結果として5人は晴れて「高松宮妃癌研究基金学術賞」を受賞したのである。

赤血球ではなく、赤芽球系細胞の話だった

この新聞記事のことを知った千島博士は、読売新聞記事で紹介された学者たちに、「あなた方は、私のガン細胞の起源や運命についての新説をご存知だったか?」という手紙を送ったという。しかし、実際のところ、冒頭で延べたように赤血球には核がないので、がん細胞にはならない。もし赤血球からがん細胞を作ることができたら、再び正常な赤血球に戻せなくても、「高松宮妃癌研究基金学術賞」どころか、ノーベル賞以上である。よってこの話は、読売新聞が不正確な記述をしたか、千島博士の読解力に難があったかの、どちらかである。検証するには読売新聞の記事に当たらなくてはならない。いつか調べようと思いつつ放置していたが、わざわざ調べてくれた人がいた。以下、孫引きであるが紹介する。


■事の真実を読み取れぬオカルト医者 その2 *2(西式甲田療法による介護 )


ガン細胞を正常細胞に戻す基礎医学実験に成功したのは癌研究会癌研究所(東京・上池袋)、京都大学ウイルス研究所、国立がんセンター(東京・築地)の三研究グループ。

まず癌研グループ(菅野晴夫所長、井川洋二主任研究員、古沢満・大阪市大助教授)はネズミの赤血球(フレンド細胞)を培養、これにDNA合成阻害剤など細胞の増殖機構を阻害するいろいろな化学物質を与える研究中、DMSO(ディメチル・スルフォキサイド)という物質がフレンド細胞を正常な赤血球細胞に戻し、ガン細胞で失われる機能(ヘモグロビンを作るメッセンジャーRNAの合成)を回復することを発見した。

ガン細胞は無色で単に増殖するだけなのに対し、ほぼ正常化した赤血球は色も黄色で、ほとんど増殖が見られず、酸素を運ぶヘモグロビンが生産されている。

これで白血病は、形成途上の赤血球が正常な赤血球にまで成熟できない分化異常が原因であることを明らかにした。


念のために言っておくが、「西式甲田療法による介護」のブログ主さんの言う「事の真実を読み取れぬオカルト医者」とは、千島博士のことではなく、私のことである。「フレンド細胞」というキーワードで、だいたいのところがわかった。なお、■何度か追試が認められていたガン可逆化説 ガンは正常細胞に戻せることはわかっていた!*3(動画で見る真実のガン治療)にて、読売新聞記事の全文が読める。「ネズミの赤血球(フレンド細胞)を培養」は不正確な引用であり、正確には「ネズミの赤血球のガン細胞(フレンド細胞)を培養」である。千島学説に都合の良いように意図的に不正確な引用ができるほど「西式甲田療法による介護」のブログ主さんはズル賢くはないだろうから、うっかりミスなのであろう。

読売新聞の記事を読んだだけでも、井川らの研究が千島学説を支持するどころか、否定するものであるとわかる。「西式甲田療法による介護」では引用されていないが、読売新聞の記事には、白血病のガン細胞は「ひたすら増殖だけに専念する」とある。千島学説では、ガン細胞は増殖によるものではなく、病的な赤血球からできるとされる。読売新聞の記事のやや不正確なところは、フレンド細胞のことを「ネズミの赤血球のガン細胞」と書いたところである(一般向けの記事では許容範囲内だと思うが)。正確には、赤血球への分化途中の骨髄細胞由来のがん細胞である。正しい血球分化の図を以下に引用する。





血球細胞の分化(渡辺亨チームが医療サポートする:慢性骨髄性白血病編:がんサポート情報センターより引用)


造血幹細胞が骨髄球系前駆細胞に、そして赤血球、血小板、白血球のそれぞれの3系統に分化する。マウスにフレンドウイルスを感染させることで、赤血球に分化するはずだった細胞(赤芽球系細胞)が癌化したものがフレンド細胞である。ヒトの病気で言えば、白血病の中の赤白血病に相当する。フレンド細胞は「フレンド赤白血病細胞」とも呼ばれる。千島博士や支持者たちは、「フレンド細胞は癌のモデルとしては不適切である。癌は癌細胞が増殖して増えるのではない」と主張するべきだった。実際には、千島博士は「これは私が長年主張している千島学説である」と手紙を出してさっくり無視されたそうである。たとえるなら、「地球は球形でなく平らである」とする大地平坦論者が、「地球は完全な球形ではなく、南北方向にわずかに扁平である」という研究に対して、「これは私が長年主張している学説である」と言ったようなものである。

分化誘導療法は既に臨床応用されている

これで終わると、単に「トンデモさんは、自説を否定する研究を都合よく自説に肯定的であるかのように誤読する」という一例を示しただけになるので、臨床応用されている分化誘導療法について紹介したい。ときに「現代医学ではがん細胞を殲滅する方法しかとっていない」と主張されることがあるが、誤りである*4。白血病の一種である急性前骨髄性白血病に対する分化誘導療法は、すでに標準的治療法として確立している。鶴見寿らの解説記事「レチノイドによる白血病の分化誘導療法」(Biotherapy 20巻2号 Page150-157(2006))から引用する。



急性白血病の主たる治療理念は、増殖している白血病細胞(芽球)を完全に抹殺し(total cell killing)、正常造血能の回復を得ることであるが、完全寛解到達の過程で正常造血能の抑制(骨髄抑制)が必発となる。このため感染症や出血を中心とした種々の合併症を招き、時に致死的な状態に陥る。これに対して分化誘導療法とは、分化能を失っている白血病細胞を成熟細胞に分化させようというものである。20数年前より分化誘導療法として各種ビタミン剤や低用量化学療法などが試みられてきたが、一部の症例で成功するのみであり、臨床応用は疑問視されていた。分化誘導療法が画期的な展開をみせたのは、1988年中国より報告された急性前骨髄性白血病(acute promyelocytic leukemia, APL)に対するレチノイド(all-trans reinoic acid, ATRA)の分化誘導効果の報告である。ATRA療法は世界各国において追試され、現在ではAPLに対するその臨床効果はほぼ確立されたといえる。ATRAによる分化誘導療法の確立は、白血病の治療概念を変えたのみならず、APLの発症機構やATRAの作用機構に関する分子生物学的研究を大きく推進させ、他の腫瘍の治療を発展させるべく医学研究の礎となったという極めて大きな意義がある。


分化誘導療法の発展に千島学説は1mmも貢献していないし、これからも貢献することはない。がん細胞の分化を促すことで悪性腫瘍を治療しようとする試みは、細胞分裂説とまったく矛盾しない。レチノイドによる白血病治療について千島学説支持者が知っていたら、勘違いして、「千島博士の業績の横取りだ」と主張しそうであるが、幸いなことにそういう主張はなされていないようだ。


*1:URL:http://www.creative.co.jp/top/main2928.html

*2:URL:http://plaza.rakuten.co.jp/hukohitomi/diary/200908040000/

*3:URL:http://hon.hp2.jp/sai5.html

*4:内科医でなければ知らなくても仕方がない。福岡伸一も癌の分化誘導に関連して「がんに正気を取り戻させる治療には誰も成功していません」と述べている(ASAHI Medical 2009年8月号P12)