NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

PCR検査は感染症の診断に広く使われている

ニセ科学によく見られる特徴の一つに「標準的な学説の一つを否定するに留まらず科学の広範囲な分野を否定する」というものがある。そしてしばしば、ニセ科学の信奉者はそのことに無自覚だ。たとえば、千島学説は、別名を腸内造血説と呼ばれ、「造血の場は骨髄ではなく腸である」だとするニセ科学だが、つきつめると千島学説は現代生物学のほぼすべてを否定していることになる。しかし、千島学説支持者はそのことをわかっていない。

単に造血の場は腸である、というだけではなく、赤血球は造血幹細胞が細胞分裂・分化してできるのではなく消化された食べ物が変化して生じる、というのが千島学説の中心的な主張だ。食べ物から赤血球ができるとして、いったいヘモグロビンはどこから現れるのか?定説ではヘモグロビンの遺伝情報はDNAにコードされており、mRNAへ転写され、ポリペプチドに翻訳される(高校生物学で習ったように記憶している)。もちろん、食べ物にはヒトヘモグロビンの情報はコードされていない。千島学説を支持するのであればヘモグロビンの由来についての疑問に対して何かしらの説明が必要だが、私が千島学説支持者と議論した経験では、彼らはこうした疑問に答えることはできなかった。というか、こうした疑問について彼らは理解できなかった。そもそも転写や翻訳について知識があれば千島学説支持者なんかにはならない。

さて、「新型コロナウイルスは存在しない」というニセ医学に関連して、「PCRは感染症の診断には使えない。PCRの発明者であるキャリー・マリスがそう言った」という「デマ」がある*1。PCRが感染症の診断に使えないという主張は、新型コロナウイルスが存在するかどうかという話に限定されずに、感染症学全体をほぼ否定していることになるのだが、新型コロナ否認主義者はそのことに気づいていないようだ。

PCR法に代表される核酸増幅検査は、いまや多くの感染症の診断に利用されている。たとえば結核。古典的な結核の診断法は、顕微鏡で検体中の菌を直接観察するか、培養するかである。ただ、顕微鏡下での観察では、結核菌によく似ている非定型抗酸菌という種類の細菌との区別ができない。また、結核菌は増えにくく培養には数週間という時間がかかる。そこで結核菌のDNAを特異的に検出する拡散増幅検査が用いられる。数時間で結果が得られ、非定型抗酸菌との鑑別も可能だ。日本では1990年代半ばより結核菌に対するPCR法が用いられている。PCRは感染症の診断には使えないというのであれば、ここ約25年間にわたる結核の診療は間違っていたのか?こうした疑問に対してなんらかの説明が必要であるが、新型コロナ否認主義者は説明できない。というか、彼らの大部分は結核の診断にPCR法が使われていることを知らないであろうし、説明が必要であること自体を理解できないであろう。

HPV(ヒトパピローマウイルス)の感染の有無もPCR法で診断されている*2。HPVの慢性感染は子宮頸がんの原因になるので、子宮頸がん検診において、従来の細胞診に加え、PCR法などのHPV検査が併用されつつある。数ある感染症の中でHPVを例に挙げた理由は、全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会・事務局長である池田としえ氏が、「ウイルス検出のためにPCRを使用する事は適切ではない」とキャリー・マリスが発言したなどという「デマ」を述べているからだ*3。「HPVワクチン薬害訴訟全国弁護団」のサイトには「HPV検査を併用すれば、がんになる前の段階でほぼ100パーセント異常を発見することができます」とあるが*4、PCRが感染症の診断に使えないなら、弁護団の主張は誤りだということになってしまう。被害者連絡会の事務局長という立場の人物が弁護士団の見解を否定しているわけである。

そのほか、ウイルス性肝炎、インフルエンザ、麻疹、風疹、MRSA、マイコプラズマ、ヘルペスなどなど、感染症の診断に広範囲にPCR法は利用されている。「PCRは感染症の診断には使えない」という「デマ」は、こうした事実を無視して、新型コロナウイルスが存在して欲しくないという願望を肯定するために持ち出された。ただ、このような指摘は新型コロナ否認主義をすでに信じてしまった人には届かないであろう。せめて、半信半疑の人は、PCR法が新型コロナに限らず感染症の診断に広く利用されているという事実について、新型コロナ否認主義者は何も説明できていない点について考慮していただきたい。


*1:マリス氏はエイズ否認主義者であり、HIVの定量検査にPCRを使うことに否定的ではあったようだが、ロイターのファクトチェックでは、「PCRは感染症の診断には使えない」とは、言っていないとされている(■Fact check: Inventor of method used to test for COVID-19 didn’t say it can’t be used in virus detection | Reuters)。「ある特定のの感染症において、定性検査ではなく定量検査としてPCRは使えない」という主張と「感染症の診断にはPCR使えない」という主張とはずいぶん異なる。

*2:PCR法を使わない診断法もあるが、PCR法と結果がお互いに一致することをもって信頼性がチェックされているため、PCR法が信頼できないならそれ以外の診断法も信頼できないことになる

*3:令和 2 年 6 月議会「新型コロナに迫る!」 日野市議会議員 池田利恵 令和 2 年 6 月 8 日。URL:http://www.ikedatoshie.com/20200610.pdf

*4:■Q 子宮頸がんは検診により予防できるのですか? - HPVワクチン薬害訴訟全国弁護団。なお、HPV検査を併用しても浸潤子宮頸がんやがん死を100%防ぐことはできないし、30歳未満に対してはHPV検査は推奨されない。よってHPVワクチンと子宮頸がん検診の両方が必要だというのが、標準的な考え方である

HPVワクチンが子宮頸がんを増やすというニセ情報を検証してみた

子宮頸がんの原因の大多数はHPV(ヒトパピローマウイルス)の慢性感染であり*1、HPVワクチンによってHPVの感染を防ぐことで子宮頸がんを予防することが期待できる。もちろんワクチンである以上、100%の安全性は保障できず、頻度はともかくとしてHPVワクチンが重篤な副作用を引き起している可能性は否定できない。ニセ医学に頼らなくてもワクチンの害について議論することはできるのだが、一部のというか、多くの「反HPVワクチン」論者は完全にニセ医学側に立っている。不幸なことだ。

彼らの定番の「デマ」の一つが「HPVワクチンは子宮頸がんを減らすどころかむしろ増やしている」という主張だ*2。一般の人たちだけではなく、科学コミュニケーションや 科学ジャーナリズム論を大学で教えている先生も「釣られている」*3。何らかの対抗言論が必要だと考えた次第だ。

HPVワクチンがHPVの感染を防ぐこと、および、前がん病変を減らすことは、臨床試験においてもリアルワールドの観察研究においても示されている。ワクチンが子宮頸がんも減らすと考えるのが合理的であり、よほどの強い証拠がない限り、HPVワクチンが子宮頸がんを増やすとは言えない*4。実際、HPVワクチンで子宮頸がんが増えるという主張には、強い証拠どころか、きわめて薄弱な根拠しか示されていない。以下、オーストラリアとイギリスの事例について検証する。


オーストラリアの子宮頸がん罹患率(発生率)上昇は高齢化のせい

「オーストラリアでは2007年からHPVワクチンが導入されたが、むしろ子宮頸がんは増加し続けている」という主張とともに以下のようなグラフが提示される*5


「2007年からHPVワクチンを接種してますが子宮頸がんは減るどころか増加し続けています」


相応の医学知識を持っていれば、このグラフではHPVワクチンが子宮頸がんを増やすとは言えないことはすぐにわかる。よしんばワクチンが子宮頸がんを増やすとしても接種直後から増えるはずがない。提示されているのは全年齢の罹患数*6であり、ワクチンの影響が出るのはワクチン接種後からかなり時間がかかる。そもそもHPVワクチン導入の2007年の前から増加傾向である。このグラフを出してHPVワクチンが子宮頸がんの増加と関係があるかのように述べるのは、騙されているか、騙そうという意図があるかのどちらかだ

ワクチンのせいではないとして、なぜオーストラリアで子宮頸がん罹患率が上昇しているのか。実際のところ、オーストラリアにおける子宮頸がん増加は高齢化のためだ。年齢調整後の子宮頸がんの罹患率を示す。年齢を調整すればワクチン導入後の罹患率の上昇は観察されない。


オーストラリアにおける年齢調整子宮頸がん罹患率の推移

イギリスで25~29歳の子宮頸がんが増えているのはワクチンとは無関係

「2008年からHPVワクチンを導入している英国ではこの10年で25歳から29歳における子宮頸がんが54%増加している」という言説も、ワクチンが子宮頸がんを増やすという「デマ」に利用されている。しかし、もともとの引用元であるCancer Research UKでは明確に、子宮頸がん検診と同時にHPVワクチンが推奨されている。


■Cervical cancer progress falters as screening uptake hits record lows | Cancer Research UK


Cervical cancer is caused by the human papilloma virus (HPV) – an infection that around 8 in 10 people in the UK will get and can now be vaccinated against. In the last 20 years Cancer Research UK funded clinical trials to help create the HPV vaccine, which is now offered to children across the country and expected to save many lives.
(DeepLによる機械翻訳)子宮頸がんは、ヒト乳頭腫ウイルス(HPV)によって引き起こされます - 英国では10人に8人がかかる感染症であり、現在ではワクチンを接種することができます。過去20年間、Cancer Research UKは、HPVワクチンを作成するための臨床試験に資金を提供し、現在、全国の子供たちに提供されており、多くの命を救うことが期待されています。


Cancer Research UKが25~29歳における子宮頸がんの増加を述べたのは、だからこそHPVワクチン接種と子宮頸がん検診が重要だと言いたいがためであり、ワクチンにがん促進リスクがあるかのようにほのめかす文脈に引用するのはチェリーピッキング、不適切な引用だ。大学で科学コミュニケーションを教えるような先生であればこそ、こうした不適切な引用を批判すべきであろうに。

Cancer Research UKのサイトの注釈によると、イギリスの25~29歳女性の子宮頸がん罹患率は、2004-06年の12.0人/10万人から、2015-17年の18.5人/10万人まで増えたとあり、これが54%増加の根拠だ。私の調べた範囲内では、25~29歳女性の子宮頸がん罹患率のピークは2013-15年で、21.0人/10万人だ*7。イギリスでは2008年からキャッチアップとして14歳~18歳の女性に対してHPVワクチンが接種されている。5年後の2013年には彼女らは19歳~23歳、7年後の2015年には21歳~25歳であり、2013-15年時点までの25~29歳女性の子宮頸がん罹患率の上昇とワクチン接種は関係はない。

キャッチアップ世代が25歳以上となる直前まで上昇し続けてきた25~29歳女性の子宮頸がん罹患率は、2015年以降、下がりつつある。一方、ワクチン世代ではない30~34歳の子宮頸がん罹患率は微増を続けている。2015-17年においては、25~29歳女性の子宮頸がん罹患率はワクチン世代ではない30~34歳の子宮頸がん罹患率と逆転した。ワクチンとは別の要因(性交渉開始年齢の低年齢化など)で上昇しつつあった若い世代での子宮頸がん罹患率が、HPVワクチン接種世代で逆転して減少しているように見えるが、子宮頸がん罹患率は、がん検診開始年齢等の他の要因にも影響を受けるため、現時点ではワクチンのおかげで罹患率が下がったとは必ずしも言えない。そこで断定的に述べると、反HPVワクチン論者と同レベルになってしまう。今後、複数の地域において質の高い検証が行われ、報告されるであろう。


その他の国についてもHPVワクチンが子宮頸がんの上昇の原因であることを示す証拠はない

今回はオーストラリアとイギリスの事例を述べたが、反HPVワクチン論者によれば、デンマークやスウェーデンやアメリカ合衆国でも子宮頸がんワクチン世代の子宮頸がん罹患率が上昇しているとのことである。しかし、私が検証した範囲内では、一つの例外もなくどれも証拠薄弱であった。

先進国でよくみられる子宮頸がん罹患率の推移のパターンは、がん検診の普及*8や公衆衛生の改善による減少後に、おそらく性交渉開始年齢の低年齢化による若年層における増加が続く(だからこそ検診だけでは不十分でHPVワクチンが必要だとされている)。自説に都合のよい時点を選べば、医学に詳しくない人たちにHPVワクチン開始後に罹患率が上昇したように思わせることは容易だ。

はなはだしい場合は、子宮頸がん検診の受診割合の増加のグラフを提示して子宮頸がん罹患率が増加したと主張されたこともあった*9。雑にもほどがあるが、こうした雑な主張であっても検証には手間取る。ネタ元の多くは海外の反ワクチンサイトである。反HPVワクチンサイトではなく、反ワクチンサイトだ。標準医療否定とも結びついており、ご承知の通り検証が追い付かないほどニセ情報が量産されている。ブログやSNSベースのHPVワクチンが子宮頸がんを増やしたという主張は信じないほうがいいし、そのような主張を批判的言及なしに紹介する論者は信頼に値しない。



関連記事:
■イングランドにおいてHPVワクチン接種世代の子宮頸がんは増加していない
■日本語で書かれた教科書も理解できない大学教員

*1:■「HPVは子宮頸癌の原因ではない」というトンデモ説を参照のこと。

*2:デマという言葉には「意図的」に流す嘘、という意味が込められているが、意図的ではない誤情報の場合にも使用されている。今回の件は意図的に誤情報を流しているのであろう人がいる一方で、意図的ではなく善意で情報を拡散している人たちもいるため、「」付きの「デマ」とした

*3:https://twitter.com/SciCom_hayashi/status/1298199194952273926

*4:2024年2月2日追記:2020年8月の段階では「ワクチンが子宮頸がんも減らすと考えるのが合理的」と書いたが、その後、リアルワールドでHPVワクチンが浸潤子宮頸がんを減らす報告が相次いでおり、2024年2月の段階では「ワクチンが子宮頸がんも減らすのはもはや確立された事実」だとみなしてよい。

*5:「HPVワクチンと子宮頸がん増加の因果関係については断定していない」という言い訳が予想できるが、sivad氏は、反ワクチン論者によく引用される、HPVワクチンがHPV既感染者の「前癌病変のリスクを44.6%増加させる」というデータを引用し、「逆にがんを促進するかもしれないリスクは副反応とともに重大な問題となるものでしょう」と述べた上で、わざわざ年齢調整されていないグラフを持ち出した(URL:https://sivad.hatenablog.com/entry/2019/06/02/215307)。はたして誠実な態度と言えようか。また、「癌病変のリスクを44.6%増加させる」というデータについては、詳しくは■「HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)の嘘」の検証(1)HPVワクチンは前がん病変のリスクを44.6%増やすのか? - うさうさメモを参照のこと。本当にHPVワクチンがHPV既感染者の前がん病変のリスクを増やすのであれば、10年以上前のデータだけしか提示できない理由について説明が必要だ

*6:2023年1月23日追記:「罹患率」を「罹患数」に修整。Y軸はNo. of cases、グラフのタイトルがIncidence(Incidence rate)であった。

*7:URL:https://uat.cancerresearchuk.org/sites/default/files/cancer-stats/cases_crude_f_cervical_i15/cases_crude_f_cervical_i15.xlsx

*8:一般的にがん検診はがん罹患率を上昇させるが、子宮頸がん検診は、前がん病変を発見し浸潤子宮頸がんに進行する前に治療介入することで子宮頸がん罹患率を下げうる

*9:https://twitter.com/NATROM/status/1068500715935387648

新薬に対する熱狂の弊害

新型コロナウイルス感染症に対する治療薬の評価がぼちぼち出つつある。トランプ大統領が推したことでも注目を集めたヒドロキシクロロキンはもともとは抗マラリア薬で、自己免疫性疾患にも使用されている。安価な経口薬で、使用実績が多く副作用の情報も把握されており、ヒドロキシクロロキンが新型コロナに効くなら大きな助けになったはずだが、残念ながら最近は旗色が悪い。

最近の報告だと、軽度から中等度の新型コロナウイルス感染症に対し、標準ケア、標準ケア+ヒドロキシクロロキン、標準ケア+ヒドロキシクロロキン+アジスロマイシンの3群を比較した、オープンラベル(非盲検)、ランダム化比較試験において、15日目の患者の臨床状態に有意差は見られなかった*1。参加者の合計は665人、それぞれの群は217~227人。アジスロマイシンは抗菌薬の一種で、併用するとウイルス減少に効果的だったという小規模な先行研究があった。

もちろんこの研究だけではヒドロキシクロロキンが効かないとは断言できない。研究にはそれぞれ限界や欠点があり*2、なんなら後に誤りや不正が発覚して撤回になる可能性だってある。一つの研究だけで結論が定まることはめったにない。ただ、他の研究も参照するにヒドロキシクロロキンはどうやら期待外れのようだ。効果があるとしても控えめで、少なくともトランプ大統領が言っていたような「ゲームチェンジャー」にはなれないのは確かである。

ここまでなら、当初高く期待されていた薬の効果が、より質の高い大規模な臨床試験で期待ほどではないことが明らかになった、というよくある話。加えて、薬への期待が異常に高まりすぎると弊害が生じるという教訓にもなる。米国アリゾナ州において、自己判断でクロロキンを予防目的で内服した男性が死亡したと報道された。トランプ大統領がクロロキンが安全で効果的だと主張するのをテレビで見たという*3。この男性が内服したのはヒト用のクロロキンですらなく極端な事例ではあるが、日本のワイドショーなどを視聴すると、特定の薬剤がさも特効薬であるかのように報道し、不確実性やリスクについての情報がきわめて不十分だと感じることが多々ある。

フランスでもクロロキンの期待が高まりすぎで悪影響が生じた。特定の医師がクロロキンを推奨し、国民の多くがクロロキンが広く利用できることを望んだという*4。よく言及されるのは、フランスにおいて、軽症の新型コロナ患者1061人に対してヒドロキシクロロキンとアジスロマイシンを併用投与したところ、973人(91.7%)が10日間以内に良好な臨床状態とウイルス学的治癒を得られたという研究である*5。対照群のない観察研究で、しかも無症状の患者も含まれており、改善が薬のおかげなのか自然治癒なのか区別ができない。「効果があるかもしれないから、ランダム化比較試験を行って検証する価値がある」ぐらいのことは言えるが、その結果は冒頭に紹介したように効果を確認できなかった。

医療には不確実性はつきもので、目の前に病気に苦しむ患者がいれば効果が不明確でも薬を使うという選択肢はある。結果的に効果がなく、あるいは、副作用が生じるということもあるだろう。不確実性について十分な情報提供が必須だ。ただ、メディアではとくに、「効果があるかどうか現時点ではよくわからない。重篤な副作用があるかもしれないし、それほどはないかもしれない」という正確だがあいまいに聞こえる言説よりも、「効果はあります。国民のために一刻も早く承認をすべき。命がかかっているんです!」と断言してくれる言説のほうが好まれるようだ*6。これは、洋の東西を問わない。

クロロキンを推奨するフランスの医師はメディアの人気者になった。一方で弊害として、フランスではクロロキンを処方しない医師が「物理的な脅迫」を受けた、ランダム化比較試験への参加者が集まらない(対照群に振り分けられたくないため)*7、クロロキンの在庫が不足して以前から薬を必要としていた患者さんに薬が届きにくくなった*8、といったことが起こった。日本でも似たようなことは起こっている。

臨床試験、とくにランダム化比較試験の意義について理解が得られていないことが原因の一つかもしれない。以下に挙げる主張はいずれも臨床試験を行わない理由にならない。「薬の作用機序から考えて効果が期待できる」「試験管内で抗ウイルス活性がある」「有名人の誰それが薬を飲んで良くなった」「何人もの人が薬の投与後に回復した」「新型コロナは急に自然治癒するような病気ではないから薬は効いたはず」「臨床医の実感として効果がある」「効かなかったらこんなにたくさんの人に使われていない」「有効ではないというエビデンスがない」。

エボラウイルス病(エボラ出血熱)に対して、有効で安全な治療法は確立していない。ランダム化比較試験がほとんど行われなかったためだ(実行された唯一のランダム化比較試験は流行が終了しつつあったため目標患者数を達成できなかった)*9。エボラウイルス病は新型コロナウイルス感染症よりもずっと致死率が高い。いったん罹患したら高い確率で亡くなるのでランダム化比較試験を行うのは非倫理的だ、 という意見もあるかもしれないが、それも誤りだ。いつまで経っても有効な治療法がわからない状態が続く方が非倫理的である。また、「重症者にはプラセボ効果がない」ことをもってランダム化比較試験ができないことにはならない。対照群には必ずしもプラセボ投与されるわけではないし、倫理的な理由でその時点での標準治療が行われるのが原則だ。エボラウイルス病に対して行われたランダム化比較試験では、「その時点の標準治療」として経口ファビピラビル(アビガン)が対照群にも投与された。

繰り返しになるが、ランダム化比較試験を済ませないと、その薬を投与してはならないと言っているわけではない。投与するなら、患者は不確実性について十分に説明され、また、医師には覚悟が必要である。すでに臨床試験が済み、十分に確立された治療であっても、想定される不利益について医師には説明義務がある。効果が未確認の治療法はなおさらだ。メディアで新薬(あるいは既存の薬の新しい使用法)について報じるときには、過度に煽らず、不確実性についても十分に情報を提供していただきたい。