NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

HPVワクチンが自己免疫疾患を増やすという証拠はない

全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会事務局長・日野市議会議員の池田としえ氏が、「HPVVの副反応は、1000人に1人とされているが、健康な若い女性13236人の治験の結果、ガーダシル9の自己免疫疾患系副反応の発生率は、2.3%であることが明らかになっている(表)」とするツイートをリツイートし、ハンフリー医師なる人の言葉を引用し『「10万人当り7人の子宮頸がんのために、2300人の副反応被害者を作り出すのは狂気の沙汰」恐るべき数字!』とツイートした。

「2.3%であることが明らかになっている(表)」からは、HPVワクチン接種群10706人のうち全身性自己免疫疾患の発症が245人であることが読み取れる。しかし同時に、対照群9412人のうち218人(2.3%)が自己免疫疾患を発症したことも表には載っている。どちらも2.3%で差がない。つまり、この表はHPVワクチンと自己免疫性疾患の発症には因果関係がないことを示している。わざわざ対照群のほうまで赤で強調されている。対照群と比較することを知っている人ならば「10万人中2300人の副反応被害者を作り出す」という主張が間違っていることは容易にわかる*1




「2.3%であることが明らかになっている(表)」

https://twitter.com/usotsukibakari/status/979211742998769664より引用


左の表は添付文書からの引用であろうが*2、「10万人中2300人の副反応被害者」の元ネタはどうやら"sanevax.org"というサイトである*3。信頼できるサイトかどうかは、自閉症やワクチン被害や慢性疾患に対してホメオパシーを推奨しているようなページ*4が含まれていることから推測してみていただきたい。

しばしば「研究という根拠に基づいてHPVワクチン批判をしているのに反ワクチンだとミスリードしたり、レッテルを貼ったりするな」という意見を聞く。なるほど、その通りだ。根拠に基づいたHPVワクチン批判を反ワクチンと一括りにしてはいけない。そのような一括りにしたような主張はぜひどうぞ具合的に事例を挙げてどんどん批判していただきたい。

それはそれとして、一部の(というか私の見るところでは多くの)HPVワクチン批判が、今回指摘したように根拠に基づいていないことについて、危惧を覚える。今回も取り上げたのは、一被害者のツイートではなく、「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会事務局長」という肩書のあるアカウントのツイートである。こうした誤りに対し、被害者連絡会内部から間違いを指摘したり訂正を促したりする様子は私の観察範囲内ではみられない。もしかしたら、そのような指摘をする人が排除された結果かもしれない。一方で、HPVワクチンを否定するような主張であればまったく検証抜きに受け入れられている。

HPVワクチン批判を反ワクチンと一括りされてるような事例が存在するとしたら、それは一部のHPVワクチン批判が反ワクチンサイトから無批判に主張を引用し拡散しているからではないか。「ミスリードしたり、レッテルを貼ったりするな」と主張する人たちは、池田としえ氏に「誤った医学情報を拡散しないように」と助言してみてはどうだろうか。


*1:細かいことを言うと対照群にはAAHS(アジュバント)投与された人も含まれているので「HPVワクチンそのものではないがアジュバントによる自己免疫疾患発症を否定できない」という主張もあるだろう。その主張を全面的に受け入れても「2300人の副反応被害者を作り出す」という表現は誤りである。さらに言うなら、アジュバント不使用群を対照とした臨床試験や、これまでアジュバントが使用されてきた他のワクチンの使用実績から言って、2.3%といった高い頻度で自己免疫性疾患を引き起こすことはきわめて考えにくい。免疫系に作用するという薬の特性を考えるともしかしたら今後、アジュバントもしくはHPVワクチンが自己免疫性疾患を増やすという証拠が出てくるかもしれない。しかしながら、2.3%といった高い頻度ではありえない

*2:2018年4月5日「左の表は添付文書からの引用であろうが」を追記。このエントリーは添付文書やFDAのサイトにも載っている有害事象(因果関係を問わない)をワクチンとの因果関係のある副作用であるとする反ワクチンのいつもの手法に対する批判である。「自己免疫性疾患2.3%」については私が確認できるいちばん古い情報が2014年12月のsanevax.orgのページである

*3:http://sanevax.org/fda-approved-gardasil-9-malfeasance-or-stupidity/

*4:http://sanevax.org/a-proven-cure-for-autism-vaccine-injuries-and-chronic-disease-homeopathy/

SNSのせいで落語を楽しめない

私は桂春蝶師匠(3代目)の落語が好きだ。上手い下手、良し悪しを判断できるほど落語を聴きこんでいないので、この記事で語るのは私の主観による好き嫌いの話である。初めて聴いた春蝶師匠の噺は、私の記憶が確かなら、『看板のピン』である。落語は同じ演目でも演者によって異なり、それが楽しみの一つなのだが、春蝶師匠の『看板のピン』は大胆なアレンジがなされていて、ものすごく面白かった。そして華がある。以降、春蝶師匠が福岡で公演するときにはできるだけ聴きに行った。

古典も新作も楽しめたが、ちょっと違和感を感じるときもあった。『約束の海〜エルトゥールル号物語』は、100年ちょっと前に日本近海で座礁したトルコの軍艦の乗員を近隣の村民が一丸となって助け、その恩義をトルコ人たちが忘れていなかったという逸話を新作落語にしたものだ。美談にしすぎというか、「日本スゲー」感が過剰に思われた。それでも木戸銭分は十分に楽しめたし、聞き手の好みはそれぞれで「いい話」を強調した噺が好きな人もいるし、抑えめにさらりと語るのが粋に感じる人もいるのだろうと考えていた。

今後も機会があれば春蝶を聴きにいくつもりだ。ただ、これまでのようには楽しめないかもしれないと危惧している。特にエルトゥールル号の話を次に聴いたときには、1回目ほど楽しめないだろう*1。理由は春蝶師匠のツイートである。





すでに多数の批判がなされており、炎上と言っていい状態である。私は、貧困問題はいまの日本でも重要な問題であり、貧困は自己責任ではないと考える。春蝶師匠は若いころに苦労されたそうだ*2。春蝶師匠が努力によって成功したのは事実だろうが、誰もが同じ条件で同じように努力できるわけではない。生活習慣病の自己責任論にも通じるが、社会的に成功したり健康であったりするのは、自分の努力だけではなく、運によるものもある。「努力すればなんとかなる」という環境がそもそも恵まれたものなのだ。

「思想と芸は別である」という意見もあるかもしれない。確かにジャンルによっては、作家の思想と作品を完全に分離して受け取ることができる(少なくとも私にとっては)。政治信条が自分と真逆の作曲家や小説家や漫画家の作品を、作家と切り離して私は楽しめる。

けれども、落語は違う。作曲家と曲、漫画家と漫画よりも、落語家と噺はずっと密接だ。次に春蝶師匠の噺を聴くときはきっと、SNSでの発言なんか忘れて落語を楽しめばいいと思いつつ、何かが心に引っかかり続けるだろう。古典落語には貧乏人が出てくる噺は多い。春蝶師匠は「世界中が憧れるこの日本」における貧困問題についてツイートしたのであって多くの噺の舞台となる江戸時代の貧困までは「自分のせい」だとは思っていないのかもしれない。ただ、そうは言っても聴く方は気になるのだ*3。また、エルトゥールル号の話は、「これを聴いて大喜びする人たちがいるのだろうなあ」などと思ってしまうだろう。芸人はSNSでの発言を止めろと言いたいわけではない。「私はこう感じる」という主観の話である。「炎上も芸のうち、それが春蝶師匠の魅力だ」と考える人だっているのだろう。

立川談志師匠(家元)の落語を私は生で聴くことはできなかった。私が聴いた談志師匠の噺はすべて記録された音源からである。暴言が多かったと聞く。現在だったら炎上していただろう。中には差別的だったり説教臭かったりするマクラ*4があり、そういうのは私は苦手だ。けれども噺に入ると気にならない。そんなことはどうでもよくなる。なぜかはわからないが、これこそが芸なのかもしれない。春蝶師匠には炎上など忘れてしまえるような芸を期待する。

*1:落語は同じ演者の同じ演目を何度聴いても楽しめるのだ。細部が微妙に変わっていたりするし、変わっていなけば変わっていないでそれは芸である。桂歌丸師匠の『竹の水仙』を数年おきに3回聴いたが、私の記憶の範囲内では、まったく違いがわからなかった

*2:https://twitter.com/shunchoukatsura/status/966116865448673280

*3:たとえば春蝶師匠が『人情八百屋』を演ったとして純粋に噺を楽しめるだろうか?どう演るのか別の意味で聴いてみたいが

*4:むろん時代的な背景があるのはわかる。そうは言っても聴く方は気になるのだ

インフルエンザ蔓延予防のための受診は必要か?

高リスクグループや重症者でなければ受診は必要ないというけれども、インフルエンザだったら他人に感染させないために解熱してから2日間は自宅での安静が必要であるのだから、きちんと受診して診断してもらう必要があるのではないか」という意見を聞く。

結論を言えば、インフルエンザの蔓延防止が目的であっても診断や検査目的の受診の必要性は乏しい*1。とくに流行期においてはそうだ。なぜなら診察や検査でインフルエンザを否定するのは困難だからである。

インフルエンザ迅速検査はご存知の方も多いだろう。「スワブ」という綿棒を細長くしたようなものを鼻の奥に入れて検体を採取するあれだ。鼻汁や鼻腔ぬぐい液中のインフルエンザウイルス抗原を検出することで、15分以内に検査結果が出る。インフルエンザ迅速検査で陽性であった場合は、ほぼインフルエンザだと確定する。しかし、インフルエンザ迅速検査で陰性であってもインフルエンザではないとは断定できない。

インフルエンザの患者にインフルエンザ迅速検査を行って、正確に陽性と結果がでる確率(感度)はおおむね60%〜90%だ。幅があるのは発症してからの時間やウイルスの型、手技、迅速診断用キットの種類などの影響を受けるからである。2017年の系統的レビューおよびメタ解析では感度は61.1%とされている*2。日本からの報告ではもうちょっと良い数字であることが多いが、それでも一定の割合で偽陰性(=本当はインフルエンザなのに誤ってインフルエンザではないという検査結果が出てしまうこと)が生じる。

流行期には発熱患者の6割とか8割とかがインフルエンザである*3。仮に70%の確率でインフルエンザである患者さんに対し感度が80%の検査を行い、結果が陰性だったとしよう。この患者さんに対して「あなたはインフルエンザではないので熱が下がったらすぐに出勤していいです」と言っていいだろうか?

こうした患者さんが100人いたらそのうち70人がインフルエンザだ。この70人のうち検査陽性は70×0.8 = 56人、検査陰性は70−56 = 14人。インフルエンザではない30人は全員検査は陰性である*4。陰性の結果が出た14+30 = 44人のうち、インフルエンザではないと正確に診断できるのは30÷44 = 約68%である*5。検査だけでインフルエンザではないと診断してしまったら、残りの3割強の患者さんがウイルスを巻き散らすことになりかねない。

なので、インフルエンザの蔓延防止が目的なら、流行期の発熱患者は検査の結果に関わらず、インフルエンザであるとみなして対応するのが望ましい。すなわち、発症してから5日間かつ解熱して2日間は出勤せずに自宅で安静にする。私の外来ではそのようにご説明している。抗インフルエンザ薬については症状の重篤度、年齢や背景疾患、本人の希望などによって処方するかどうかを判断する。検査が陽性であっても一律に処方するようなことはしない。




流行期のインフルエンザ迅速検査の考え方

検査前確率が高いと検査結果で方針が変わらないので検査は原則として不要だ。実際には患者さんのリスクの程度、インフルエンザ以外の疾患の可能性、患者さんの希望等々に配慮して検査するかどうかを判断する。

医師であっても検査の限界をよく理解していない場合がある。そのような医師が偽陰性例に「インフルエンザではない」というお墨付きを与えてしまうことが、インフルエンザの蔓延を助長しているかもしれない。そもそも、インフルエンザではない普通の風邪であったとしても、解熱してすぐに出勤はしないほうがいいだろう。まだ治っていないかもしれないではないか。

「とは言うものの、そうそう休んではいられない」という事情はわかる。よくわかる。診察室内では個別の事情にはできる限り配慮する。それはそれとして、インフルエンザの流行期には「検査で陰性なら解熱してすぐに出勤してもよい」「他人に感染させないためにも積極的に病院を受診して検査を受けたほうがよい」という方針は医学的には不正確で、かえって流行を促進しかねないことが周知されればありがたい。


*1:症状がきつい、不安が強い、自分では重症かどうか判断できない、診断書が必要、持病があるといった場合は受診してください。ここでは、それほど症状はきつくはないけれども、「インフルエンザが流行っているから念のために検査を受けてこい」などと上司に言われて受診するようなケースを主に想定している

*2:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/28520858

*3:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/28520858

*4:厳密に言えば100%ではないが100%に近い

*5:陰性反応的中割合という