NATROMのブログ

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HPVワクチンの定期接種は人体実験だったのか?

厚生労働省のリーフレット(平成25年6月版)には「子宮頸がん予防ワクチンは新しいワクチンのため、子宮頸がんそのものを予防する効果は証明されていません」*1との記載があった。子宮頸がんのほとんどはHPV(ヒトパピローマウイルス)の感染が原因で起こるのだが、HPVに感染し、前がん病変を経て、子宮頸がんに至るまでは時間がかかる。人によっても差はあるが、数年間から長ければ数十年間といったところだ。よって、ワクチンを接種してから子宮頸がんの減少が観察できるまでは時間がかかる。

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子宮頸がんとHPVワクチンに関する正しい理解のために(日本産科婦人科学会)より引用
URL:http://www.jsog.or.jp/modules/jsogpolicy/index.php?content_id=4

細かいことを言えばワクチン接種後に浸潤子宮頸がんが減ったとする報告はUSAとフィンランドからあるが*2、エビデンスは限定的でまだ確実とは言えない。現在、確実に言えるのは、HPVワクチンが、高リスク型HPVの感染を減らすことと前がん病変を減らすことまでだ。どちらも複数のランダム化比較試験および観察研究で確認されている*3

HPVワクチンに批判的な人たちから、よく、「子宮頸がんそのものを予防する効果が証明されていないのに、ワクチンを定期接種にしたのはけしからん。人体実験だ」という意見が出る。その意見が正しいとすると、日本だけではなく、世界中の多くの国々で人体実験が進行中で、WHOやCDCといった公的機関も人体実験に加担していることになる。結論を言うと、HPVワクチンの接種が推奨されているのは人体実験ではない。直接的な証拠がなくても、子宮頸がんを減らすことが期待できるだけの十分な蓋然性、合理性があるからだ。

子宮頸がんの原因はHPV感染である(これを否定する言説は完全にトンデモとみなしてよい)。HPV感染を防ぐなら子宮頸がんを防ぐだろうというのは合理的な推測だ。前がん病変を防いでいるなら、その蓋然性はさらに大きくなる。

もちろん、医学の歴史において、合理的で蓋然性が高いと思われていた仮説が間違っていたことはよくある。たとえば、不整脈を予防しようとしてかえって死亡が増えたという事例がある。心筋梗塞を起こした患者さんは致死的な不整脈で亡くなることが多い。不整脈を減らす薬を使えば患者さんの予後は良くなるという推測は合理的だが、実際に比較試験を行うとかえって実薬群で死亡が増えた*4

HPVワクチンが子宮頸がんを防がないという可能性はあった。たとえば、ワクチンが高リスク型HPVの感染を予防してもその代わりに別のタイプのHPVが感染し、期待ほどは予防効果が発揮できなかったかもしれなかった(ウイルス型置換)。また、参加者が厳しい基準によって選ばれている臨床試験とは異なり、そうした基準を満たさない対象者も多数混じる実際の臨床の現場(リアルワールド)においては臨床試験ほどには効果を発揮できなかったかもしれなかった。

それから…、と言いはじめると、HPVワクチンが子宮頸がんを防がない理論的な可能性はいくつもある。しかし、そうした懸念は払拭されつつある。リアルワールドにおいて、ウイルス型置換は明確ではなく、むしろワクチンがカバーしていないタイプのHPV感染を防ぐ効果(交差免疫)が不完全ながらあるらしいことが観察されつつある*5。前がん病変も減っている。HPVワクチンが子宮頸がんを防がないという可能性はあったものの、その可能性はさまざまな研究、新しい証拠によってどんどん小さくなっている。直接的な証拠はいまだ限定的であるものの、期待通り、HPVワクチンが子宮頸がんを防ぐことが明らかになりつつある、というのが現状だ。そこで、冒頭の問題提起に戻るとする。子宮頸がんを減らすという直接的な証拠がないからといって、HPVワクチン導入を行うことは果たして人体実験だと言えるのか。

仮の話として、日本がHPVワクチンを定期接種していなかったと仮定しよう。海外ではどんどん定期接種化される。WHOもCDCも接種を推奨している。国境なき医師団のような医療系NGOも発展途上国でHPVワクチンを接種する。日本でも、情報にアクセスでき対価を払うことのできる人達が自費でHPVワクチンを受けるだろうが、そのような人たちは一握りだ。多くの人はそのようなワクチンの情報は知らされないし、知っても高価過ぎて受けることができない。

諸外国においてワクチンのおかげで子宮頸がんにならずに済んだ人が多く観察できた時点で、「子宮頸がんを減らすという直接的な証拠が出そろったので、日本でもHPVワクチンを定期接種にします」と政府が決定する。もっと早くに定期接種化していれば、HPVに感染しなかった人、前がん病変にならなかった人、子宮頸がんにならなかった人、子宮頸がんで死なずに済んだ人がいたはずなのに。海外で公的機関が推奨している医療行為をお金持ちだけ受けることができる状況は、はたして社会正義にかなうことなのか。格差を縮める役割を果たすのが政治ではないのか。

医療には不確実性が伴う。過去の薬害の教訓を踏まえ、新しい医療の導入に慎重になることもやむを得ない。代理指標だけで効果を期待すると失敗することもある。一方で慎重になりすぎると救える人も救えない。そこにはトレードオフがある。HPVワクチンの現状について十分に情報を吟味した上で反対するという立場もあるだろう。そのような立場の人と私は意見を異にするが、建設的な議論はできる。しかし、よく知らないのに「予防効果が証明されていないのに定期接種にした。人体実験してんじゃねーよ」といった雑な主張を行うのは、あまりにも無責任じゃないか。

なお、HPVワクチンを接種していても子宮頸がん検診は必要である。ワクチンがカバーしていないタイプのウイルスもあるし、ワクチンのHPV感染予防効果は100%だとは言えないからだ。「どうせ検診を受けなければならないのならHPVワクチンは不要だ」との意見もよく見られるが誤りである。検診でも子宮頸がんを100%防げるわけではないし、検診そのものや前がん病変の治療に一定の害があるからだ。ワクチンと検診の併用が、世界標準の子宮頸がん予防法である。