NATROMのブログ

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HPVワクチンの問題はトロッコ問題か?

「ワクチンで人が死んではいけない」といった趣旨のツイートがブックマークを集めている。そのいくつかが、HPVワクチンとトロッコ問題の類似性について指摘している。トロッコ問題とは、暴走したトロッコがそのままだと5人ひき殺すことろが、ポイントを切り替えて路線を変えると犠牲者は1人で済むという状況のときに、はたしてポイントを切り替えることは倫理的なのかという思考実験のことである。

確かにHPVワクチンとトロッコ問題は似ている。HPVワクチンを接種すると前がん病変や(おそらく)子宮頸がんを減らせるが、その代わり副作用が生じうる。比較すると利益のほうが害よりも大きいため接種を(国際的には)推奨されている。これは「多数を救うために少数を犠牲にする」トロッコ問題ではないか?しかし、私の考えでは、HPVワクチンとトロッコ問題には重要な違いがある

トロッコ問題ではポイント切り替え前の犠牲者と後の犠牲者は明確に区別できるが、HPVワクチンではそうではない*1。HPVワクチンを接種する前は(場合によっては接種してどれだけ時間が経っても)誰が利益を得られるのか、誰に害が生じるのかはわからない。トロッコ問題の少数の犠牲者はポイント切り替えによって利益を得られる可能性はまったくのゼロであるが、HPVワクチンの副作用被害者はワクチン接種時にはワクチンから利益を得られる可能性があった。

むろん「ポイント切り替え前の犠牲者と後の犠牲者が明確に区別できるかどうか」という点は些細なことであって、本質的にはHPVワクチンはトロッコ問題だという主張もあるだろう。ただ、そう主張する論者は、HPVワクチンだけでなく他のワクチンも、いや、ワクチンに限らずほとんどすべての医療行為はトロッコ問題であると考えなければならない。

そうした論者は、たとえば「手術しないと50%が死ぬ重篤な病気にかかった。手術が原因で死ぬ可能性は1%」という状況は「多数を救うために少数を犠牲にするのを許容できるのか、というトロッコ問題」と考えるはずだ。あるいはもしかしたら、手術は「少数の命は切り捨てる」「命を大事にしているのではなくコスト計算しているだけ」などと言う人もいるかもしれない*2

がん検診はどうか。「無症状の女性1000人を対象に乳がん検診を行うと、1人の乳がん死を減らすことができる一方で、4人の過剰診断と200人の偽陽性が生じる」という状況は、「多数を救うために少数を犠牲にする」どころか「少数を救うために多数を犠牲にする」とすら言える。医療における標準的な考え方では、少数とは言えがん死という重大なアウトカムを減らすためなら、その程度の「副作用」は許容しうる、と考える。利益と害を天秤にかけるわけだが、利益と害を受ける対象が同一であるため一般的にはトロッコ問題とはみなされていない。

医療においてトロッコ問題(私が考える意味において)があるとしたら、たとえばこのようなものだ。「小児(学童)にインフルエンザワクチンを広く接種すると、高齢者のインフルエンザ関連死亡が減る。高齢者の死亡を減らすために小児にインフルエンザワクチンを接種すべきか?」。この場合、ポイント切り替え前の犠牲者(高齢者)と後の犠牲者(小児)は明確に分かれている。倫理的には、原則として、高齢者の死亡を減らすことだけを目的に小児にインフルエンザを接種すべきではない。ワクチン接種の主目的はまずワクチンを受ける人の利益である。幸いというか、現実にはインフルエンザワクチンは小児自身に対しても利益はある。

「自然に起こる病気よりもワクチンの副作用のほうが怖い」と考える人もいるだろう。人為によるリスクを大きくとらえるのは人の心として自然なことである。そういう人はワクチンを受けない自由がある。患者にはどのような医療を受けるのかを選択する権利がある*3。ワクチンについて不正確な情報を流したり、あるいは他人がワクチンを受ける自由を阻害したり(「HPVワクチンを定期接種から外せ」など)したならともかく、ワクチンを受けないという選択自体を他人が批判するべきではない。


*1:HPVワクチンの場合はワクチン接種後の有害事象がワクチンと真に因果関係があるのか不明であるという点、HPVワクチンによって真に利益を受けた人が誰だか特定できない(ワクチンを打たなくても子宮頸がんにならなかったのかワクチンを接種したおかげで子宮頸がんにならなかったのか、個人レベルでは区別できない)といった点もトロッコ問題とは異なるが、今回のエントリーでは取り上げない

*2:URL:http://b.hatena.ne.jp/entry/366249505/comment/ccfva

*3:未成年の場合はどうなのか、という問題は医療ネグレクトにも絡んで複雑なので今回のエントリーでは扱わない。■医療ネグレクトの定義を参照のこと