NATROMのブログ

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SNSのせいで落語を楽しめない

私は桂春蝶師匠(3代目)の落語が好きだ。上手い下手、良し悪しを判断できるほど落語を聴きこんでいないので、この記事で語るのは私の主観による好き嫌いの話である。初めて聴いた春蝶師匠の噺は、私の記憶が確かなら、『看板のピン』である。落語は同じ演目でも演者によって異なり、それが楽しみの一つなのだが、春蝶師匠の『看板のピン』は大胆なアレンジがなされていて、ものすごく面白かった。そして華がある。以降、春蝶師匠が福岡で公演するときにはできるだけ聴きに行った。

古典も新作も楽しめたが、ちょっと違和感を感じるときもあった。『約束の海〜エルトゥールル号物語』は、100年ちょっと前に日本近海で座礁したトルコの軍艦の乗員を近隣の村民が一丸となって助け、その恩義をトルコ人たちが忘れていなかったという逸話を新作落語にしたものだ。美談にしすぎというか、「日本スゲー」感が過剰に思われた。それでも木戸銭分は十分に楽しめたし、聞き手の好みはそれぞれで「いい話」を強調した噺が好きな人もいるし、抑えめにさらりと語るのが粋に感じる人もいるのだろうと考えていた。

今後も機会があれば春蝶を聴きにいくつもりだ。ただ、これまでのようには楽しめないかもしれないと危惧している。特にエルトゥールル号の話を次に聴いたときには、1回目ほど楽しめないだろう*1。理由は春蝶師匠のツイートである。





すでに多数の批判がなされており、炎上と言っていい状態である。私は、貧困問題はいまの日本でも重要な問題であり、貧困は自己責任ではないと考える。春蝶師匠は若いころに苦労されたそうだ*2。春蝶師匠が努力によって成功したのは事実だろうが、誰もが同じ条件で同じように努力できるわけではない。生活習慣病の自己責任論にも通じるが、社会的に成功したり健康であったりするのは、自分の努力だけではなく、運によるものもある。「努力すればなんとかなる」という環境がそもそも恵まれたものなのだ。

「思想と芸は別である」という意見もあるかもしれない。確かにジャンルによっては、作家の思想と作品を完全に分離して受け取ることができる(少なくとも私にとっては)。政治信条が自分と真逆の作曲家や小説家や漫画家の作品を、作家と切り離して私は楽しめる。

けれども、落語は違う。作曲家と曲、漫画家と漫画よりも、落語家と噺はずっと密接だ。次に春蝶師匠の噺を聴くときはきっと、SNSでの発言なんか忘れて落語を楽しめばいいと思いつつ、何かが心に引っかかり続けるだろう。古典落語には貧乏人が出てくる噺は多い。春蝶師匠は「世界中が憧れるこの日本」における貧困問題についてツイートしたのであって多くの噺の舞台となる江戸時代の貧困までは「自分のせい」だとは思っていないのかもしれない。ただ、そうは言っても聴く方は気になるのだ*3。また、エルトゥールル号の話は、「これを聴いて大喜びする人たちがいるのだろうなあ」などと思ってしまうだろう。芸人はSNSでの発言を止めろと言いたいわけではない。「私はこう感じる」という主観の話である。「炎上も芸のうち、それが春蝶師匠の魅力だ」と考える人だっているのだろう。

立川談志師匠(家元)の落語を私は生で聴くことはできなかった。私が聴いた談志師匠の噺はすべて記録された音源からである。暴言が多かったと聞く。現在だったら炎上していただろう。中には差別的だったり説教臭かったりするマクラ*4があり、そういうのは私は苦手だ。けれども噺に入ると気にならない。そんなことはどうでもよくなる。なぜかはわからないが、これこそが芸なのかもしれない。春蝶師匠には炎上など忘れてしまえるような芸を期待する。

*1:落語は同じ演者の同じ演目を何度聴いても楽しめるのだ。細部が微妙に変わっていたりするし、変わっていなけば変わっていないでそれは芸である。桂歌丸師匠の『竹の水仙』を数年おきに3回聴いたが、私の記憶の範囲内では、まったく違いがわからなかった

*2:https://twitter.com/shunchoukatsura/status/966116865448673280

*3:たとえば春蝶師匠が『人情八百屋』を演ったとして純粋に噺を楽しめるだろうか?どう演るのか別の意味で聴いてみたいが

*4:むろん時代的な背景があるのはわかる。そうは言っても聴く方は気になるのだ