NATROMのブログ

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海水を点滴したというルネ・カントン氏について調べてみた

■はてなブックマーク経由で、■「ただの海水で、病気が治っては儲からない」のでウィキペディアから消えている人物:ルネ.カントン|人生は強く,たのしく、しあわせに☆ ネオヒルズというよりも,ネオ日本人。というブログを知った。このブログによれば、ルネ・カントン(Rene Quinton)という人物は、「1907年、初めてのクリニックをオープンしてから、血液の濃度まで薄めた海水を病人に輸血し、1910年までにフランス国内で約70ものクリニックを開け、50万人以上の命を救った」のだそうである。「ただの海水で、病気が治っては儲からない」ため「ペニシリンや抗生物質が売られ始めてから、彼は歴史から消されかけた」とのこと。なお、「ウィキペディアからさえ消えている」そうだが、英語版のWikipediaにRene Quintonの項目は普通に存在する。

情報源は、『「ザ・フナイ」の中で船瀬俊介氏が連載している記事』だそうで、お馴染みの標準医療を否定する論法である。最近では船瀬氏は輸血の有用性を否定しており、ルネ・カントン氏の逸話はその一環である。船瀬氏によれば、輸血には効果がないにも関わらず「悪魔的な吸血ビジネス」として使用されているのだそうだが、むしろ船瀬氏のほうが本の出版や講演会で儲ける「標準医療否定ビジネス」を行っているように思える。船瀬氏の主張を信じるのは個人の自由であるが私はお勧めしない。輸血を拒否し、死亡したり後遺症が残ったりしても、船瀬氏は責任を取ってくれない。

そもそも海水を点滴して大丈夫なのか。海水は浸透圧が高く、そのまま点滴すると血管痛や溶血を起こすだろうが、水で薄めて浸透圧を調整すればその問題は回避できる。次に問題になるのは細菌感染のリスクだ。たとえば海水中にはビブリオ・バルニフィカスという細菌がいて、傷口から感染し敗血症を引き起こすことが知られている。煮沸消毒すれば感染も回避できるが、煮沸後であっても微生物の死骸などの不純物を含む海水を直接血管内に投与すると、アナフィラキシーショックを起こすかもしれない。ただし、感染やアレルギーは確率の問題なので、運が良ければ起こらない。

映画や漫画などのフィクションにおいて、理想的な輸液製剤を使えないという設定下で(離島に遭難したとか、戦場で補給が途絶えたとか、江戸時代にタイムスリップしたとか)、高度な脱水がある患者を救命するために、代替手段として煮沸消毒・ろ過した海水を点滴する医師を描くこともできる。というか、私が知らないだけで、既にそのような作品があっても驚かない。

そんなわけで、「カントンの犬」の逸話は実話であってもおかしくない。カントン氏は、愛犬の血液を瀉血した後に濃度を調節した海水を点滴静注する実験を行い、「赤血球の急速再生」などを観察したそうである。海水を点滴されて運よく死ななかった犬は貧血状態にある。動物の体はうまくできているもので、貧血状態にあると、元に戻ろうと造血機能が亢進する。この生理的な造血亢進を、海水療法による効果と誤認したというのはありそうな話である。

カントン氏が海水療法を行ったのは20世紀の初期の話であり、ブックマークコメントで、カントン氏は「輸液療法の初期の時代の貢献者の一人」である可能性があると述べた。しかし、輸液の歴史をあらためて調べてみたところ、19世紀末には既にリンゲル液(生理食塩水にカリウムやカルシウムを加え浸透圧を調節した細胞外液)が開発されており、カントン氏の輸液療法への貢献はあったとしても小さいものと思われる。

興味深かった発見は、カントン氏の海水療法が現代においても代替医療として利用可能なことであった。"www.quintonhealth.com"というサイトで、"Quinton Isotonic Ampoules"(カントン等張アンプル)が販売されている。24ポンドというから4000円ぐらいか。日本人向けの個人輸入サイト(■クイントン アイソトニック - IAS Japan)でも同様の製品が売られている。





「100%自然!」というキャッチコピーに親和性のある人たちが顧客である


アンプルの形で販売されているが、血管内投与ではなく経口摂取するもののようである。だったら普通に海水を薄めて飲めばよさそうなものだが、業者によれば、「ただの海水」ではなく、特別な作り方をしていると称されている。とくにエビデンスの提示も無く効果効能を謳っているが、少なくとも標準医療の否定はしていなさそうだ。高血圧や心不全といった塩分制限が必要な病態なら話は別だが、健康な人が経口摂取するぶんには単なるお金の無駄に留まる。

「カントン・アイソトニック」は単なる生理食塩水とは異なり、微量のミネラルが含まれているがゆえに特別な効果があると根拠なく主張されている。本当に海水療法に効果があるというのであれば、「カントンの犬」の再現実験をしてみせればよい。実験動物の血を抜いて、「カントン・アイソトニック」を点滴した群と、対照として生理食塩水を点滴した群を比較すればよい。しかし、業者はわざわざそのような実験をしないであろう。商品を売るのが目的だからである。