NATROMのブログ

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水俣病と化学物質過敏症は異なる

■NATROM氏『化学物質過敏症は臨床環境医のつくった「医原病」だと思う』等について - 赤の女王とお茶をにおいて、sivad氏が私の「難病や公害に対する基本的な姿勢」に問題があると指摘している。あたかも私が水俣病の病因を無視して被害を拡大させた医学者と同様であるかのような書き方であった。読者のみなさまには、このエントリーにて、臨床環境医学の問題点や、化学物質過敏症と水俣病の違いについてご理解していただけたら幸いである。

多種類化学物質過敏症と水俣病との違い

Multiple chemical sensitivity(MCS, 多種類化学物質過敏症)という疾患概念は、主流の医学界からは認められていない。たとえば、American Medical Association (AMA, アメリカ医学協会)は "Until such accurate, reproducible, and well-controlled studies are available, the American Medical Association Council on Scientific Affairs believes that multiple chemical sensitivity should not be considered a recognizable clinical syndrome."*1と述べている。なぜか。その理由は疫学的な証拠に欠け、あるいは疾患概念自体が曖昧であるからである。

まず、疫学的な証拠の有無という点で水俣病と化学物質過敏症は異なる。sivad氏が指摘しているように、水俣湾の魚介の摂取と水俣病の発生についての疫学的証拠はかなりの初期から判明していた。化学物質の曝露と発症に関連がある(あるいは疑われる)のなら、病因物質や発症のメカニズムが不明であっても対策が必要だ。この点において誤解を招かぬよう、■化学物質過敏症に関する覚え書き■何を否定し、何を否定していないかというページにおいて、「微量の化学物質の有害性は否定していません」と私は述べている。ただ(化学物質過敏症の[症状誘発]ではなく[発症]が化学物質曝露と関連していてもそれほど不思議ではないと私は考えるものの)現在のところは明確な疫学的証拠に欠けている。

化学物質過敏症と何かを強いて対比させるのであれば、水俣病や杉並病*2ではなく、低線量の放射線被曝の害であろう。低線量の放射線被曝の害は疫学的には明確ではない*3。疫学的には明確ではない潜在的な害にどう対応するのかは難しい問題である。そうした潜在的な害の過小評価(政府や大企業はそうした害を過小評価する動機がある)に対する警戒には一定の合理性はある。

しかしながら、その点を考慮に入れてもなお、sivad氏による指摘は的外れである。というのも、化学物質過敏症の疾患概念を提唱し、その治療にあたっている臨床環境医たちの問題点についてまったく注意が払われていないからである。


臨床環境医の問題点

単に臨床環境医たちの主張が化学物質からの回避のみに留まっており、あるいは疫学的には明確ではない潜在的な害に対して警戒し、未知の病態に対して真摯な研究を行っていれば問題はなかった。しかしながら、臨床環境医たちはあやふやな疾患の定義および科学的根拠のない診断に基づいて、科学的根拠のない治療を行った。1992年のアメリカ医学協会の勧告では古いと思われる方もいるであろうから、UpToDateから引用しよう。UpToDateとはエビデンスに基づいた医療を実践するためのデータベースであり、最新の医療情報が反映されている。臨床医のほとんどは、自分の知らない疾患概念について知識を得ようとするときに、オーストラリア政府がまとめたレポートよりもUpToDateを参考にするだろう。



■Overview of idiopathic environmental intolerance (multiple chemical sensitivity)


Criticisms of IEI as a distinct medical entity include the lack of reliable case definitions; the lack of consistent physical abnormalities and reproducible laboratory results; the use of unorthodox diagnostic procedures; and the use of unproven and potentially harmful treatments [9]. In addition, much of the research into IEI has been problematic due to excessive reliance upon surveys and self-reported symptoms, selection bias, lack of blinding, and inconsistent quality assurance of laboratory determinations [1].

(訳:明確な医学的実体としてのIEIに対する批判には、信頼できる症例定義の欠如、一貫した身体的異常および再現可能な臨床検査結果の欠如、非正統的な診断方法の使用、効果が証明されておらず潜在的に有害な治療法を含む。加えて、概観や自己申告の症状への過度の依存、選択バイアス、盲検の欠如、品質保証が統一されていない臨床検査のため、IEIの研究の多くは問題を含んでいる。)


IEI(Idiopathic Environmental Intolerance, 特発性環境不耐症)はMCSと同じものを指していると思ってよい。「化学物質」の関与に懐疑的な立場からIEIと呼ばれることが多い。UpToDateはACOEM(American College of Occupational and Environmental Medicine, アメリカ職業環境医学会)のposition statementを参考文献として挙げているが、アメリカ職業環境医学会以外にもアメリカ医学協会などの複数の専門組織が化学物質過敏症の疾患概念に対して懐疑的な声明を発表しており*4、UpToDateの記述はそれを反映している。



Unproven therapies ― The variety of treatments dispensed by clinical ecologists is limited only by their imagination and resourcefulness [25]. These include avoidance of chemicals, environment changes, special diets, over-the-counter or prescribed medications, sublingual ingestion or subcutaneous injection of small doses of an alleged offending chemical, and detoxification procedures. Some interventions cause iatrogenic effects and can seriously disrupt the lives of patients. There is no justification for these treatments.
(訳:証明されていない治療法 ― 臨床環境医によって施行される処置の種類は、彼らの想像力と臨機応変さだけによって制限される。 これらは、化学物質からの回避、環境変化、特別なダイエット食事、市販薬もしくは処方された薬物、嫌疑のかかっている化学物質の小用量の舌下もしくは皮下投与、デトックスを含む。いくつかの介入は、医原性の影響を引き起こして、患者の生活を深刻に途絶しうる。 これらの処置を正当化する理由は存在しない。)

「化学物質からの回避」および「化学物質の小用量の皮下投与」の問題点の詳細については後日述べることにする。いずれにせよ、化学物質過敏症と水俣病が異なることだけでなく、化学物質過敏症という疾患概念や臨床環境医学に対する批判と、疫学的には明確ではない潜在的な害にどう対応するのという問題も性質が異なることを、読者のみなさまにご理解いただければ幸いである。

多発性化学物質過敏症の疾患概念の曖昧さ

疾患の発症に関する疫学的な証拠の不十分さのみならず、疾患概念の曖昧さを考えれば、水俣病と化学物質過敏症の差はより明らかである。水俣病と魚介類の摂取の関係を認めなかった「御用学者」でも、水俣病が"recognizable clinical syndrome"あるいは"distinct medical entity"であることに懐疑を呈したとは聞かない。一方、化学物質過敏症では状況が全く異なる。Cullenが1987年にMCSの定義を提唱してから30年以上経ってすら、疾患概念の妥当性について医学界のコンセンサスは得られていない。

たとえばの話、臨床環境医たちの主張が「化学物質の大量曝露あるいは少量であっても反復した曝露によってなんらかの健康障害が生じる」という主張に留まっていれば、医学界の多数派からこれほど懐疑的にみられることはなかったであろう。しかし、臨床環境医は「きわめて少ない量の化学物質曝露によって症状は誘発される」とも主張した(でもってその主張に基づき"Unproven therapies"を行った)。この主張は検証可能である。検証の結果、主張に反して、二重盲検下では化学物質を負荷しても症状が生じなかったり、あるいはプラセボ負荷でも症状が生じたりしたのであるが。

「化学物質の大量曝露あるいは少量であっても反復した曝露によって、なんらかの健康障害が生じる」という主張に対して「その通りだ。詳細な物質や機序がわからなくとも、なんらかの化学物質への曝露との関連が疑われるなら対策が必要だ」と言うと同時に、「きわめて少ない量の化学物質曝露によっても症状は誘発される」という主張に対して懐疑的な立場に立つことは可能であろう。後者の立場に立っているだけで「難病や公害に対する基本的な姿勢」に問題があるとみなすのは不適当である。


2013年7月14日追記

flurryさんのご指摘により訳の一部を訂正しました。flurryさん、ご指摘ありがとうございました。

*1:Clinical ecology. Council on Scientific Affairs, American Medical Association. JAMA 1992; 268:3465.

*2:杉並病は多発性化学物質過敏症ではないと私は考える

*3:「いや、害は明確だ」とお考えの方は、その線量の10分の1の放射線被曝のことを想定していただきたい

*4:■臨床環境医学は専門家にも注目されていた。悪い意味で。を参照のこと